大海原を見ながら観音崎通りを原付で駆け抜けて、観音崎公園を抜け鴨居の里に入る手前、小さく東京湾に突き出した半島が亀崎半島である。
この亀崎半島の付け根には「駆逐艦村雨の碑」の案内板が設けられているが、その道路向かいに小さな階段があり、その先には岩窟を穿って中に神棚をこしらえた小さな神社を見つけることができる。
この神社の祭神は「咲屋比売命」(さくやひめのみこと)であるとされ、元禄元年(1688年)に創立されたとされており、思いのほか歴史が古い事に驚かされる。
これは「新編相模国風土記稿」に亀崎権現社として紹介されている無格社で、見た目は小さくまったく無名の神社のようであるが、現在でも鴨居の須賀神社(八幡神社に合祀)の祭礼の際には必ず神主による一人神楽が奉納され、今なお地域の人々の篤い信仰を受けているという事である。
この神社には、言い伝えとしては
日本武尊(ヤマトタケル)が勅命により上総の国に渡航するべく、走水の地に到着されたが海上は風雨が強く船を出せる状況ではなかったために仕方なく数日間滞在された。
しかし、幾日待っても風波は一向におさまる気配は無い。日本武尊は困り果てたものの、これ以上日を延ばすことはならぬと船出を決意されたが、これが仇となり難破してしまったのである。
このとき、同行していた后の弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)が、「これは海神の怒りである」として日本武尊の身代わりとなるべく決意され、荒れ狂う海中に身を躍らせた。
地元の伝説では、この時の弟橘媛命のカメノヲ(遺骨)がこの地に流れ着いたから祀ったという話があり、また別の言い伝えでは地元の漁師の網にかかった権現様を祀ったという話も言い伝えられている。
どちらの由来にしても興味深いものであるが、その伝説の信憑性はさておき、通りを歩く人もまばらな夕暮れ時に、この小さな神社の脇に並ぶ2体の石仏が夕陽の光にあたためられる姿を見るとき、いにしへよりこの地で続けられてきた名も無き人々と、名も無き小さなお社の日々の交流が思い起こされるようで、感慨もひとしおである。