みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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親鸞聖人と性信房の霊跡 箱根の笈ノ平(箱根町)

世にも知れた天下の剣、箱根の山を原付で駆け抜ける、初夏の気持ちよい日。

通常、車では絶対に路駐がはばかられるようなヘアピンカーブでも、道路から外れた茂みに原付を停めればこのような写真が撮れたりするから楽しいものである。

 

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この道は通称「湯本元箱根線」といって小田原から芦ノ湖畔の箱根関所まで通じる旧東海道であるが、古来より数多くの旅人が往来してきた数だけの悲喜こもごもが秘められている坂なのでもあり、ここには親鸞聖人の霊跡が言い伝えられている。


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ここには「親鸞聖人と笈ノ平」という案内看板とともに、いくつかの石碑が残されている。

 

ここは、東国での20年にわたる布教を終えた親鸞聖人が4人の弟子を引き連れて京へと帰る道すがら、そのうちの一人である性信房(しょうしんぼう)に別れを告げたところと言い伝えられている。

 

性信房は常陸の国、現在の茨城県で文治3年(1187年)に生まれるが、当初は悪五郎と呼ばれた怪力の荒くれ者で、誰からも恐れられる男であったという。

 

そんな悪五郎が武者修行を志して、諸国を旅している中で京都の草庵の前を通りかかると、何やらものすごい人だかりができているのが気になり、悪五郎も興味本位で入ってみた。

 

そこでは、法然上人の説法が行われており、

 

人というのは、誰もが見な自分の事を分かっているという。しかし、この中に自分の眉毛を見る事が出来る者はいない。

このように、近いものと言うのは、近いからこそ見えない事もあるのだ。

しかし、仏さまは見聞知のお方である。

 

誰も見ていないからと悪い行いをしても、仏さまは見ておられる。

 

どこかで人の悪口を言い、嘘をついても仏さまは聞いておられる。

 

では、行動にせず、誰にも言わず、心の中で悪事をたくらむとどうか。仏さまは、みな知っておられるのだ。

 

さすればこそ、我々は常日頃から仏さまの前にいる事を意識して生きねばならない。

 

と、語りかけていたのである。

これを聞いた悪五郎は大きな感動を得るや、その一言一言に自らの姿を重ね、まさに法然上人の説く仏法の奥深さの虜となっていったのである。

 

阿弥陀仏の本願たるや、すべてのあまねく人間を最大の悪人と見抜かれておられる。だからこそ、そのような悪人を仏道に戻して正しい道を歩ませんとしておられる・・・

 

法然上人が説く阿弥陀仏の教え。これがのちの悪人正機の教えへとつながっていくのであるが、これにいたく感動した悪五郎は、感涙にむせびながら、自ら髷を切っては今までの非道を全て話して詫び、法然上人への弟子入りを懇願したのである。

 

しかし、法然上人は感心しながらも自らは老いた身として、脇にいた親鸞聖人の弟子となるように勧め、悪五郎は「性信房」という名をもらうと晴れて親鸞聖人の弟子になったのである。

親鸞聖人34歳、悪五郎18歳の年であった。

 

しかし、後年になり法然上人の門弟たちが後鳥羽上皇の寵愛する女官たちと密通したうえ、上皇の留守中に彼女たちが出家してしまったため後鳥羽上皇の逆鱗に触れたことにより、法然上人の門弟4人が死罪とされ、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へと流刑になる。

 

親鸞聖人は越後から関東へ行きしばらく布教に勤めていたが60歳過ぎになると、懐かしい京都へ帰る旅路へとついたのである。

 

性信房もお供をして、この箱根山に至った時、親鸞聖人は背後の関東平野を眺めながら性信房に諭した。

 

「関東に入り20年、関東で阿弥陀仏の本願を伝えてきた。初めは受け入れなかった者も今は心を開いてくれる。しかし、今後どんな妨げが起きて仏法が虐げられ、曲げられていくやも知れないのが気にかかる。

性信房は関東にとどまって、阿弥陀仏の本願をたえず正し広めてはもらえぬか」

 

性信房は多いに困惑するも、親鸞聖人により

 

    病む子をば あずけて帰る 旅の空

        心はここに 残りこそすれ


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との歌を示されると、性信房は謹んでこの大任を受けては親鸞聖人とのお別れを果たしたのだという。

 

現在、この地は駐車場もなく街道の片隅にあるので、わざわざ車を停めて訪れる人もないが、今にも草に埋もれそうな広場には一基の苔むした石碑が、ここが親鸞聖人の霊跡であることを静かに伝えているのである。


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また、この地は親鸞聖人が性信房と別れるにあたり、仏典の入った笈(おい)という箱を授けた事から笈ノ平という地名がつけられ、今なお民衆に仏徳を授ける事に生涯を燃やした高僧たちの遺徳を伝えているのである。

 

 

 

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