横須賀の歴史を秘めた浦賀湾の出口に、かつて住友重機工場の川間製作所だった広い敷地があり、その脇には今なお明治31年(1898年)に営業を開始した川間ドックが残されています。
その旧敷地の脇に伸びる細い道を海に向かって進んでいくと、東京湾に突き出した灯明鼻(とうみょうばな)と呼ばれる丘が見えてきます。
その丘の上に建っているのが、江戸時代に灯台の役割をこなした「燈明堂」の建物(復元)です。
これは、慶安元年(1648年)に幕府の命をうけた石川左ヱ門重勝や、能勢小十朗頼隆らが築造した二階建の燈明堂で、階下は番人小屋となっていました。
その2階には四方を紙張の障子に金網をめぐらせて、その中には直径36センチ、深さ12センチの銅製の灯蓋を置き、菜種油を灯して一晩中海上を照らし、航路安全のため役割を果したと言われています。
この燈明堂から少し離れたところに、御影石の巨大な題目塔や、地蔵菩薩像の供養塔が建てられているところがあります。
これらは通称「首切場」と呼ばれ、かつては樹木が茂って人通りもなく、とても淋しい所だったそうです。
幕末の頃、ここからはおびただしい数の人骨が堀り出されたと伝えられ、今でも人骨が埋もれているのではないか、と言われているそうです。
この人骨については、一説には戦国時代の弘治2年(1556年)に房総から攻めてきた里見氏と、相模を守る北条氏との合戦で出た死傷者であるとも、この沖合で難破した船の犠牲者であるとも言われています。
また、根強く語られている古老の昔がたりのなかに、かつて奉行所に近いこの場所で、多くの罪人を連れ出しては首を斬りおとした処刑場であったというものもあります。
伝承では、罪人が処刑されていくたびに、その罪人の断末魔の叫び声と、罪人の家族たちの泣き叫ぶ声、あるいは見物人の騒ぐ声が、いつもは波の音しか聞こえないであろう対岸の鴨居までも聞こえた、という話が残されています。
まさに、このような鬼気せまる言い伝えが残された地には、天保11年(1840年)に建立された、高さ6メートルにも及ぶ「南無妙法蓮華経」の題目碑が建てられています。
正面には「南無妙法蓮華経」の題目が、左右の側面には 「衆罪如相露、恵日能消除」(衆罪は霜露の如し、慧日能く消除せり)、「一切業障海、皆従妄想生」(一切の業障海は、皆、妄想より生ず)と刻まれています。
また、右隣にはやはり天保11年(1840年)に西浦賀の曹洞宗寺院、東福寺の住職であった群麟和尚が願主となって造立した、大きな地蔵菩薩さまがお座りになっておられます。
こちらは「種々重罪五逆消滅、自他平等即身成佛」と台座に刻まれており、すべての人々の罪はことごとく許されて、みな平等に成仏できる旨が説かれているのです。
雲ひとつない晴天の日、このような石仏の前に立ってひとり手を合わせ、背後から聞こえ来る潮騒に乗って流れる潮風を感じるとき、かつてこの地で血しぶきをあげながら絶命していった罪人たちの叫び声と家族たちの嗚咽が聞こえてくるようで、罪多き人間のあわれなる末路がにわかに思い出され、ここに偲ばれたのです。
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