絹の道とも呼ばれたJR横浜線の線路にそって、蛇行していく境川をどんどんのぼっていきました。
すると、やがて淵野辺本町の宮前橋にさしかかります。
その宮前橋の西側にあるのが、淵野辺山王の日枝神社です。
伝承では徳治2年(1307年)の創建とされ、ご祭神は大山昨命(おおやまくいのみこと)。
毎年9月の第2土曜日が祭礼の日です。
今となっては住宅街の中に埋もれるようにしてある、どこにでもありそうな神社のようです。
この神社をふくむ現在の淵野辺本町1丁目から2丁目にかけては、かつては「山王平」と呼ばれていました。
その名のもととなったのが、この日枝神社です。
それは、もともとこの神社が「山王神社」とも呼ばれていたからです。
この日枝神社は、境川に下りていく河岸段丘の中腹にあり、昔からこの辺りにはいくつもの大蛇伝説が語り継がれていました。
南北朝時代の暦応年間(1338年から1342年)、この辺りを治めていた淵辺義博という豪傑が、境川に巣くう大蛇によって苦しむ農民たちを救おうと一念発起して見事に退治した、という伝説が今なお語り継がれています。
さらにこの話には尾ひれがついたようで、淵辺義博に大蛇退治を命じたのは執権であった北条貞時で、僧となった北条貞時がこの地を視察に訪れたさい、あまりに苦しむ村人たちの惨状に心を痛めて淵辺義博に大蛇退治を命じました。
これをうけた淵辺義博はただちに、当時「山王大権現」と呼ばれていたこの神社に詣でて戦勝を祈願し、果敢に大蛇に立ち向かって見事退治した、と言い伝えられています。
ただし、このお話は時代的に少々食い違いがあります。
北条貞時は応長元年(1311年)に亡くなっているとされていますが、淵辺義博が大蛇を退治したのは暦応年間(1338年から1342年)とされているのです。
そして、歴史上では淵辺義博は建武2年(1335年)に亡くなったというのが定説のようです。
なので、このあたりは後世の創作か、語り継がれていくうちに時代が食い違っていったものでしょう。
それから200年くだった戦国時代の天文11年(1542年)、北条氏康が関東平定を無事に成し遂げることができるように、と家臣の大友義実がこの山王大権現を祈願所とした、という言い伝えも残されています。
どれもが歴史的な根拠に乏しく、実話であるとは断言できないものばかりです。
その一方で、それほどの伝説を生みだして今なお語り継がれている、という事自体がこの地域でのこの神社の存在感をあらわしています。
この神社の氏子たちは時代は移り変わっても信心を忘れることなく、いまなお敬神の生活を過ごしているようで、この写真の中央の庚申塔は驚くべきことに平成25年のものです。
これは、みうけんが今まで見てきた中でもっとも新しい庚申塔です。
今となっては住宅街の中にひっそりと残された静かな神社ですが、かつてこの地で生まれた多くの大蛇の伝説は、根強く語り継がれ、その御神徳は今なお崇敬の的となっています。
境内はきれいに掃き清められ、どこか凛とした威厳を保つその神々しさの前に、これぞ日本の誇る神道というものかと感動をあらわにしたことは言うまでもありません。
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