みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※いままではカタい文章の書き方でしたが、徐々に改めていきます。

生徒愛の血で線路を染めた 龍崎ヒサ先生の墓(横須賀市)

横須賀は小矢部の里、住宅地と山林に挟まれるようにしてあるのが、曹洞宗寺院の万年山 大松寺(まんねんさん だいしょうじ)です。

なぜか、ディープなスポットを巡る「ディープシティ横須賀」というサイトでも紹介されていますが、ディープとは程遠い、高台のとても気持ち良いお寺です(笑)

こちらの管理人さんは札所めぐりなどもされているようで、似た趣味の方っているもんだなぁと思います。

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さて、今回このお寺を参詣したのは、「龍崎ヒサ」先生の墓にお参りするためです。

本堂のご本尊さまに深々と礼拝し、観音様もいらっしゃるということで延命十句観音経なぞも上げさせていただいてから、墓地の中を探していきました。

 

みうけんは、このような民話散策などで墓地に入る機会がとても多いです。

原付に乗って墓地ばっかり巡っている、と言っても過言ではなく、たまに貴重な休日に他人の墓地ばかり行って何をやっているんだろうとも思いますが、一日に2000人もブログを見てくださるので無駄ではないと思っています。

 

そして、何といっても、あの無機質に林立する無数の墓石の一つ一つに、一人一人の悲しかった、嬉しかった、楽しかった、残念だった人生が込められていると思うと感慨深いものがあります。

 

墓地も先輩方のお住まいですから、入口で「おじゃまします」とお辞儀してから入らせていただくのですが、ここは困ったことに龍崎家之墓ばかりで、ヒサ先生のお墓を探すのに大変難儀しましたが、墓地に入って右手に見つけることができました。

 

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戒名を「智光院永學慈久大姉」と陰刻されたこのお墓こそ、生徒愛の血で鉄路を染めた、龍崎ヒサ先生のお墓という事です。

ひときわ白く輝いているので、後年に建て直されたのかもしれません。

 

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龍崎ヒサ先生は、大正元年(1912年)に、現在の大津駅から歩いて30分ほどの農家に生まれました。

昭和7年に神奈川県女子師範学校を卒業後、豊島尋常高等小学校で初の教壇に立ち、 翌年には横須賀市立田戸国民学校に転任されました。

 

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このころの龍崎家はヒサ先生16歳の時に母を亡くし、兄の庄司さんは陸軍少佐として前線へ。下の弟さんも亡くなり、もうー人の弟さんは過労で倒れてしまうといった状況で、ヒサ先生が一家の大黒柱であったといいます。

 

時は流れて昭和17年11月19日。

当時着任されていた横須賀市立田戸国民学校(現在の田戸小学校)の4年生、202人の子供たちが校外学習へ向かうべく、列をなして歩いていた時です。

 

深田台、平坂上、緑が丘を経て、最終的に明治天皇の聖跡「向山行在(あんざい)所跡」へ向かっていた矢先、校門の西にあった東京急行電鉄(現在は京浜急行電鉄)の踏切に差し掛かりました。

 

この時、下りと上りの両方の列車が来たのでヒサ先生は児童を止めて電車の通過を待たせようとしましたが、一人の児童が線路に入ってしまったのです。

 

これを見たヒサ先生は踏切に駆け入り、児童を向こう側に押し出したものの、ヒサ先生は列車に接触し、自身に大怪我を負いながらも「児童はどうした、児童は無事か」としきりに口走っていたという事です。

 

しかし、病院での懸命の治療も甲斐なく、午後3時すぎより容態は悪化し、午後5時くらいには還らぬ人となりました。

 

当時の神奈川新聞には「教へ子の危急を救ひ 鉄路を愛の血で染む 横須賀市立田戸国民学校 龍崎ヒサ訓導殉職」という記事が載り、その後他の新聞でも大々的に取り上げられ、大きな反響を呼びました。

 

ヒサ先生の父親、清吉さんは「可愛い教へ子の身代りになつて、本人も教師として満足でせう。親の口から云ふのも同んですが、家のためにも良く尽くしてくれた感心な子でした」と、涙ながらに語ったと記載されています。

 

地域史料の「ふるさと横須賀 郷土史散歩」(石井昭著)には、当時ヒサ先生と同僚であった中川須美先生のお話が載せられていました。

 

あれから四十年、あのやさしいほほえみに秘められた壮絶な愛のみ心、それはどれほど私の生きようをお導 き下さったことか。足元にも及びませんでした。

私は二年目の新米教師でした。昭和十七年霜月十九日は忘れることができません。 私の受け持ちの四年五組が踏切を渡り終え、下り電車が通過した直後、後ろの六組に悲鳴が…。 振り返った私の目に線路に倒れた先生のお姿がみえました。

いいお顔でした、本当に。

冷たくなったお手から何事もなく動いていた時計をはずしたことも、刈田を渡る夜風にのる念仏の声や、泣きながら井戸水を汲んだお通夜のことも、昨日のように思い出されます。

戦後、疎開から帰ってからは、ご命日には、お墓参りをしております。

 

さて、この龍崎ヒサ先生が輪禍に遭われた踏切はどこでしょうか。

田戸小学校の校門の脇には、ヒサ先生に対する顕彰碑が今も残されています。

ここを起点に原付を飛ばしてみることにしました。

 

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校門の前の道を西に進んでいくと、すぐに突き当たりとなります。

この突き当りのところのすぐ上が京浜急行の線路です。

ここに、階段の跡が残されていました。かつて、この階段の先に踏み切りがあったのかどうかまでは分かりません。

 

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今現在、このあたりで踏切と呼べるのはひとつだけです。

急な階段を上った先にある踏切です。

ここが、龍崎ヒサ先生が輪禍に遭われた踏切であるかどうかは分かりませんでした。

 

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結局、龍崎ヒサ先生のことに関しては資料を読みかじった情報を並べる事しかできませんでしたが、それでもこの龍崎ヒサ先生の話に大きな感動を覚えた身としては、一度は龍崎ヒサ先生のお墓にお参りしておいて良かったなと思います。

 

誰しも、いつかは死んでしまいます。

仮に大往生するとしても、人生の半分を終えてしまった身としては今の一分一秒をも無駄にはできず、少しでも多くのものを見て糧としておきたいのです。


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これだけ新聞で取り上げられ、当時は新聞を通じて大きな反響を呼び、橋田邦彦文部大臣からは顕彰牌までが賜られたといいます。

 

しかし、現在は龍崎ヒサ先生に対する説明版や記念碑などは墓地に見ることはできず、恐らくはこの墓地をお参りする多くの方にも知られることもなく、龍崎ヒサ先生は墓地の片隅で静かに眠っておられました。

 

初春の日、鐘楼の脇にたたずむ六地蔵の穏やかなお顔を眺めるとき、この穏やかで優しそうなお地蔵様が、苦悶のなかに壮絶な死を遂げられた龍崎ヒサ先生の魂を少しでも慰めてくださいますようにと合唱礼拝し、また原付のエンジンを吹かしながら大松寺を後にしたのでした。