平塚駅近くの住宅街から岡﨑の方へ向けて原付を走らせていました。
初夏の風も心地よく、ツーリングには本当に良い季節となりました。
とちゅう、平塚市の渋田川にかかる橋を渡ろうとしたところ、橋の脇に立派な記念碑があるのを見つけて、ちょっと引き返して見に行くことにしてみました。
こういう時に(周囲の安全をよく確認したうえで)、気軽にUターンできるというのも原付の魅力でもあると思います。
さて、白色の立派な灯篭の脇には、一枚岩に文字を彫り込んだ「史跡 鷹匠橋」という石碑が立てられています。
平成8年4月に「真土史跡顕彰会」によって建てられた旨が裏面に刻まれています。
Googleマップで「神奈川県 鷹匠橋」と検索するといくつも出てくる名前ですが、そのうちの一本がここ平塚市渋田川にかかる鷹匠橋なのです。
この鷹匠橋の歴史は古いもので、この地にかけられた案内看板によれば、江戸幕府初代将軍であった徳川家康公はたいへんに鷹狩りを好んだ人物でした。
戦国時代末期の天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康は、このあたりを鷹場として定めました。
鷹を活用して将兵を教練するとともに、この一帯の村人の暮らしぶりを観察し、当時は坂東と呼ばれて異文化の地であった関東地方の情勢を集めることに心を砕いたことでしょう。
徳川将軍家の鷹狩りを担当した鷹匠たちは、将軍が来ない時も常に鷹場を管理するばかりか、将軍家よりお預かりした鷹の教練と保養に努め、いつでも鷹狩りができるように準備を整えていました。
このように、江戸幕府将軍の直属機関であった鷹匠は現代では考えられないほどの権勢を誇り、たびたび近隣の村々に対して法度や制約を強いたという事です。
この鷹匠橋が、まさにその最たる例であるということで、この橋は鷹匠が通行するのに便利であるように、わざわざかけさせた橋であるというのです。
鷹匠は強大な権力を持っており、鷹場の村々に 度々法度を出し、村人に多くの制約を課しました。 その中で、橋のない川に橋を架けさせ、鷹匠の通行に 差し支えがないように命じました。
この橋は、その命により真土と豊田地区との間に 架けられたもので、以来人々はこの橋を「鷹匠橋」と 呼んでいます。
神奈川県内に何か所もある鷹匠橋も、そのような経緯でかけられていったのでしょう。
現在となっては地元の住民の方も生活に使う便利な橋ですが、その橋1本が掛けられた由来をみても、歴史というのは実に興味深いものだなと感じます。
いま、この鷹匠橋から眺める渋田川は、小さな川の両岸にかかるアシ原がどこまでも続き、そのゆるやかな流れは数百年にわたりこの街の姿を見てきた貫禄にふさわしく、ここでもまた時の流れの無常さというものを感じ取ったのです。
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