三浦半島の観音崎を越えて観音崎通りを南下していくと、右手には新緑うるわしき峰々と、左手には透明度も高い海の砂浜がひろがる風光明媚なところであるが、これこそが多々良浜と呼ばれる砂浜であり、平日の昼間ともなれば訪れる人も少なく、その静けさが実によいものである。
そんな観音崎の雄大な自然と風景を小さく縮めたような多々良浜であるが、浜から観音崎通りを越えた柵の中には古ぼけたコンクリート製の構造物が残されているのが確認できる。
これこそが戦時中に日本軍が観音崎砲台防衛の拠点として構築したトーチカであるが、開発の波が著しく、毎日のように海風と荒波にさらされる三浦半島のトーチカの中では、その保存状態の良さは屈指のものであろう。
安全のために鉄格子がはめられて中に入ることはできないものの、だからこそ落書きの被害や不法投棄に遭うこともなく良好な状態を保てているのが、まさに皮肉であるとしか言いようがない。
後方に周るときちんと出入り口も残されており、こちらも鉄格子がはめ込まれているものの大きく開口した出入り口からは、内部の状況がハッキリと見て取れるのである。
内部はおよそ戦後70余年たっているとは思えないほどの保存状態の良さであり、内部にはめ込まれた木枠などもそのまま残されているが、これはさすがに後世に付けられたものかもしれない。
このトーチカは沿岸防備のために構築され、往時は土の中に埋もれるようにして設置されていたが、いつしか土が失われてむき出しになったのだという。
戦後は物置としても活用されていたのだという。
トーチカのある向かい側は、どこまでも青くどこまでも続いている大海原である。
今となっては小さな子供が波に遊び、平和そのものの砂浜であるが、かつてここから銃口を海に向けて祖国の護りとなった若者たちがいたのである。
いま、このトーチカの前に立ち、夕日に照らされつつ波が寄せては返す多々良浜の海を眺める時、かつてここに生き、本土決戦に決死の覚悟を決めていたであろう名もなき若き兵士の息遣いが聞こえてくるようである。