三浦半島の先端、三崎のあたりから浜諸磯へと下っていく一本道がある。
その坂を下りきったところには諸磯の漁協と浜諸磯のバス停がある明るく開けた所があり、この場所はかつて罪人を取り調べる白州があったところであったとされており、古老たちは今でも白須という地名で呼んでいるという。
その白州より北側、現在は諸磯の漁港となって漁船がたくさん据え置かれているところがあり、またその東側にかけては小さな砂浜を挟むようにして磯が続いているが、かつてはこのあたりから出鼻にかけてお仕置き場があったとされ、今なお砂浜からは人骨が出ることがあるという。
しかし、今となっては人気も少ない潮騒のなかに夏の海を楽しむ家族連れの声がわずかに聞こえるのどかな浜となっているのである。
その浜諸磯より三崎に向かう一本道のゆるい坂道は、今なおいにしへの面影を残しながら、令和となった今でも通る人も車もまばらな寂しい道であるが、かつてはこの坂を役人に引かれた罪人が涙と途方に暮れる家族や肉親を残して死出の旅へと赴いて行ったことだろうか。
この坂の脇には、古びた六地蔵が並んでいる。
きちんとした地蔵堂に守られて、今なお赤いよだれかけと帽子が着せられ、真新しい花が手向けられているのを見ることが出来る。
この坂を下りた所に広がる白州で裁きを受けた囚人が、浜まで引き立てられては処刑され絶命するわけであるが、これを哀れに思った村人たちが罪人たちの霊を慰めるために建立されたものだといい、その言い伝えがわずかに残る現代となっても地域の信仰を受け続けて、写真のとおり大切に守られているのである。
今、この地で人が首をはねられることはなくなって久しいが、今となっても磯から続く海は変わることなく波の満ち引きを繰り返し、見渡す限りの広い水平線を伸ばしながらどこまでも広がっている。
かつて、この地で有罪無罪を問わず、多くの人が処刑されたことであろう。
この砂浜には、罪人たちの断末魔の叫び声が響き、続くようにして罪人の家族の嘆き悲しみ、嗚咽しすすり泣く声がいつまでも聞こえていたという。
いま、この静かで平和な砂浜に立ち、この地で文字通り海の藻屑となっていった罪人たちを思うとき、くりかえすさざなみと何も知らない子供たちの声がむなしく風に乗って響き渡り、その上をいつまでも旋回するトンビの声も重なって、なおいっそうさびしい風景を演出しているかのようである。