横浜を出発してから西側に向けて大きくハンドルを切ると、古くから久保山と呼ばれている高台になり、その上には一面に広がる横浜市営墓地がある。
見渡す限りの墓地では墓石が地を埋め尽くすかのような眺めであるが、その一角に古墳時代の円墳や朝鮮王朝の王墓を連想させる塚が、こんもりと築かれているのを見ることができる。
高いフェンスで囲まれ、墳丘に近づくことはできないのだが、その大きさは思いのほか大きい。昔はこれくらいの塚はよく築かれたようであるが、最近はこのような塚を築いて死者を弔うことはほとんどないように思える。
これは今(令和元年)より遡ること96年前の大正12年9月1日に首都圏を襲った関東大震災の犠牲者を葬った塚で、石碑の建立は地震からちょうど1年後の大正13年9月1日である。
この塚は正式な名称を「横浜市大震火災横死者合葬之墓」といい、横浜市内で亡くなった3300人余りの身元不明の犠牲者が葬られているのだという。
関東大震災での横浜市の死者は約23440名、行方不明者は3183人とされている。
それより多い3300人が葬られている、という事は「戸籍や住民票に加えて身内がない、または一家全滅したために、行方不明になった事すら行政に把握されていない」者もいた事だろう。
折しもこの時期の横浜は爆発的な発展を遂げ、現在の南区あたりに広がっていた通称「乞食谷戸」には各地より集まった種々雑多な貧困層、外国人労務者、ハンセン病患者などが行政の管理も及ばぬ形で、文字通り「密集」していた事もあり、そのような事情がなおさら混乱を招いたのであろうか。
また、この塚の脇には別記事でも紹介した「殉難朝鮮人慰霊之碑」がひっそりと建てられ、大震災の混乱の中で無念の死を遂げた在日朝鮮人たちの霊を慰めているのである。
いま、この久保山の高台に上ってみれば、連なる墓地の向こうには遠く横浜の住宅街が広がっているものの、この地で100年近く前に起きた大惨劇によって阿鼻叫喚の修羅地獄となったことは、いまでも小学校などで授業の一環として取り上げられ、また各地で防災の日として定着して語り継がれている。
その後、日本は数多くの大震災を経験してきているが、それらには確実に関東大震災の時の教訓が生きている。
かつて、この横浜の地で大震災の猛火の中逃げまどい、命を落とし、人知れずとして名も分からぬまま葬られていった数多くの人々がいたことを忘れてはならないだろう。
久保山にお墓参りに行く機会があったら、是非とも一足伸ばしてこちらの「横浜市大震火災横死者合葬之墓」にも手を合わせたいものである。