JR横浜線の鴨居駅を降りて急な坂道を上り、鴨居病院を越えて法國寺の裏側にある小高い丘を登ると、そこは見晴らしのよい畑が広がる台地になっており、聞こえるのは鳥のさえずりばかりという静寂ぶりである。
その丘の上には、花の時期にひときわ目立つ桜の老木があり、その根元にこんもりとした塚が畑の真ん中にあるのが見て取れるのである。
畑を迂回するように道を歩きすすみ、駐車場の脇の入口から塚の前に立つと、誰かが供養しているのであろう幾本もの卒塔婆が立ち、線香が備えられていたのが分かるが、この小さく目立たない塚こそが、戦に参加した名もなき足軽百姓たちの哀話を今に伝える「ごはん塚」と呼ばれる塚なのである。
武蔵国の有力御家人であった畠山重忠という武将がいたが、武蔵国の掌握を図る北条時政と敵対し、鶴ヶ峰で激突。
畠山重忠は周囲からの人望あつく、文武に秀でた優れた武将であったが北条家の率いる大軍には敵わず、ことごとく滅ぼされたのが後に伝わる「鶴ヶ峰の合戦」であり、駅名の南万騎が原の起こりともなっている。
この戦により畠山重忠は討ち死に。
大将を討たれ統率を失った畠山軍は混乱の末に敗走し、北条方による徹底的な残党狩りによりことごとく討たれたという。
そのような中、畠山重忠方の雑兵が数人、故郷を家を目指して、この地まで命からがら逃げてきた。
ここまで来ればもう大丈夫と一息ついたか否か、たちまち追っ手に追いつかれてことごとく討ち取られたという。
その亡骸は放置されて獣の餌となりかけたが、それを哀れんだ村人たちがねんごろに埋葬し、塚を築いて供養したのがこの「ごはん塚」なのであり、ひときわ眺めもよい高台の上に築かれている。
名前の由来に関しては、「5基の塚があったから」、「塚が茶碗に盛られたごはんのようだから」、「一休みしてごはんを食べている時に襲われたから」、などあるようだが「5基の塚」が有力であろうか。
畠山方の残党とは言え、その実体は狩り出された農民の雑兵であっただろうという口伝が、また悲しみをいっそう深く感じさせるのである。
このごはん塚は宅地開発により消滅を続けて、今となっては最後の1基を残すのみとなったが、今なお毎年6月の供養祭には多くの住民が集い、線香を炊き山盛りのごはんをお供えしているという。
いま、この線香の香りが仄かに香る高台の丘から横浜の街を眼下にのぞむとき、二度と戻れぬ故郷をはるかに見据え、まったく知らぬ異郷の地で露と散った無名の足軽たちの嘆きが聴こえるようで、一抹の悲哀を誘うのである。