三浦半島の東端、観音崎の風光明媚な海岸よりどこまでも続く砂浜を南下していきます。
途中、海沿いの風光明媚なところを過ぎて引橋に至るのが国道134号線、通称三崎街道です。
この、宝蔵院前の交差点を山側に入るとすぐに見えてくるのが浄土宗寺院の 五劫山 法蔵院 阿弥陀寺です。
このお寺の起源はとても古く、鎌倉時代後期の元久元年(1204年)、天台宗の明円上人により開創されたのち、法然上人の教えをうけて浄土宗に改められたのが起源とされています。
元々は京都の知恩院の末寺でしたが現在は鎌倉光明寺の末寺となっており、場所が場所であっただけに戦国時代には房総半島の里見氏より度重なる侵攻をうけ、激しい戦火により幾度となく堂宇を灰燼に帰されています。
その際、里見氏が略奪した仏像や寺宝、梵鐘などは途中の“しけ”により海に投げ捨てられたものの、不思議と近くの菊名海岸に流れ着いたことで元の場所に還ることが出来た、という伝説が残されています。
ところで、この法蔵院の山門には、立派な龍の彫刻が残されています。
これは元禄12年(1699年)に山門が建て替えられた時のものとされており、荒れ狂う波間に龍が、その裏面には梅と二羽のキジが彫刻された見事なものです。
この龍はもちろん、木を彫って作られたものですから泳ぐはずもないのですが、この龍には不思議な伝説が残されています。
それによると、海でしけがある度に龍は山門を抜け出してどこかへ出かけていくという事です。
木製の山門から、突如体をくねらせて鱗をぬめぬめと輝かせた龍が出てくれば、これを驚かない人はいないでしょう。
この龍が夜に抜け出して、どこに行ってしまうのか。
一説には、海上を泳いで渡り、対岸にある安房国、今でいう房総半島先端のほうへと行っていたという言い伝えがあります。
安房国といえば、この寺を焼いた里見氏の拠点です。
その龍の真意は分かりかねますが、この地域に住む人たちにとっては気持ちの良いものではなかったのでしょう、今でも龍の左眼には「目打ち」といって五寸釘が打ちこまれているのだそうです。
そういえば、よく見ると龍の左目は補修されたのか黒くなりまるで独眼竜政宗のようです。
この龍は、江戸時代に一世を風靡した名工、左甚五郎の作品であるという言い伝えがあります。
左甚五郎が作りあげた龍というのは本当に夜遊びが好きなようで、ここから何十キロも離れた中井町でも、同じく左甚五郎の作といわれる龍が夜中に寺を抜け出して散々な目にあわされています。
中井町の龍と、こちら法蔵院の龍では作風もだいぶ違いますから、果たして本当に左甚五郎の物かどうかというと、個人的には「う~~~ん」と思うのですが、そこは詳しい方に見て頂いての御教授を乞いたいところです。
どちらにしても、この山門の龍は絶妙にくねらせた身体と、荒れ狂う波の描写がいかにも見事で、一見の価値はあるものだと思います。
いま、この山門の龍を眺めていると、かつて ここに多くの里人が集ってははしごをかけ、もう二度とどこへも行かないようにとの戒めを込めて釘を打ち付ける健気な姿が目に浮かぶようで、ここにも昔日を生きてきた人たちの生きざまが蘇るかのようです。