横浜市営地下鉄の港南中央駅から山側に登っていくと、港南中学校の裏側の高台にうら手の高台に、松本山法身院・正覚寺という浄土宗の古刹がある。
丘に囲まれた港町横浜を象徴するような、起伏の富んだ地形を切り開いた住宅街の中に、ひっそりと佇む静かなお寺で、苔むした庭の情景はいっそうの風情がある。
この正覚寺は、戦国時代にこのあたりを治めた後北条氏の家臣、間宮氏が開創した寺で、権現堂の戦いで死傷者を多く出し、さらに権現堂を焼失させた供養のために載蓮社運誉正阿覚冏という僧がこの地に正覚寺を、また吉原に報身寺を開創したのが始まりとされている。
この辺りは現在ではどこまでも住宅の屋根が続く住宅街であるが、先ほども書いたようにかつては起伏の激しい土地であった。
高台に登ればどこまでも見渡せたといい、このあたりにあった松の巨木から松本という地名を与えられ、現在の港南一丁目から六丁目を中心に、このあたりを松本村と呼んでいた。
現在では港南という町名になっているあたりも、松本町内会など町内会の名前にその名残をかろうじてとどめ、地域歌「笹下よいとこ」には 〽︎関に 雑色 松本宿に という歌詞が残っていることから、このあたりは宿場町として栄えた時代もあったのであろうか。
現代となっては、その松の木もなくなってしまって久しいが、この幻の松の木には江戸幕府から遣わされた隠密の伝説がいまなお語り継がれているのである。
かつて、この正覚寺の脇に大きな松の老木がそびえていた。
この松に登れば周囲一帯をくまなく見渡せるということであったが、今から400年ほど前の江戸時代、この松の樹上にひとりの隠密がひらりと登ると、大きなホラ貝を吹き始めたのである。
これは隠密たちの交わす集合の合図で、このホラ貝が鳴り響くや村々のところどころから、幾人かの男たちが集まっていたという。
戦国時代が終わって太平の時代となったものの、まだまだ徳川幕府の権力基盤は盤石とは言えない一方で、この地域にはかつて豊臣秀吉によって滅ぼされた後北条氏の子孫や残党が多く残っていた時代である。
特にこのあたりは、後北条氏の中でも相模衆十四家と呼ばれた筆頭家老、間宮氏の支配拠点に近い場所でもあり、そのうちの幾名かは後北条氏なきあと徳川の家来となったものも多かったが、いつ謀反を起こすかもわからない浮動分子とみなされて、常に監視の対象とされていたのである。
このホラ貝の合図で松の木に集まった男たちは、その間宮氏の監視の任に当たった隠密や密偵であったとされ、その地名の由来は、単に松の木から取っただけにとどまらず、徳川の祖となった松平氏から取ったという説もあるくらいである。
今となっては、この辺りに生えていたという松の木も失われ、ただひたすらに家々が波をなす横浜市のどこにでもありそうな住宅街であるが、このように一見平凡そうな地名がついた、一見平凡そうな住宅街にもこのような逸話が残されているというところが、民話の面白いところであると思う。
いま、この古刹の境内を歩き、苔むした庭先で春うららかな陽光を浴びてうたた寝をする観世音菩薩の石像を見る時、遥か遠くにのぞむ港南区の街並みと、かつてここに跋扈し隠密の任についた名もなき武士たちの姿が重なるようで、ここにも時代の流れというものの無常さをしみじみと感じるのである。