9月のまだ残暑厳しい中、横須賀の衣笠公園を訪ねました。
衣笠公園は緑が多く起伏に富んで、犬の散歩やジョギングをされている方が多く、横須賀市民から愛されている公園だと思います。
この公園を含む衣笠山は、かつて三浦一族の本拠であった衣笠城址の脇にあり、その山の姿が馬の背に鞍を置いたような形に似ているところから、「鞍掛山」という別名があります。
この公園も明治40年(1907年)、日露戦争の戦没者を慰霊するために開設された公園で、たくさんの桜の木が植えられており、春には花見の名所ともなっています。
衣笠山公園については、かつて忠犬タマ公や衣笠神社の記事も紹介しましたが、今回はこの大きな石碑に焦点を当てたいと思います。
この見上げるような大きな石塔は、大正11年に建立されました。
まるで古代エジプト文明のオベリスクのような姿をしていますが、その表面には銅板の切り文字で「西田明則君之碑」と書かれており、その台座には銅板がはめこまれ、この石塔の由来を語っています。
「西田明則君」というのは、東京湾を敵の艦船の襲来から防御する人工島の砲台、東京湾海堡の建設に一生を捧げた陸軍工兵の西田明則大尉(後少佐)の事だそうです。
江戸時代、たびたび黒船が来襲した記憶から従来の台場では事足りず、東京湾の入り口である富津岬から横須賀猿島までの線に人工島を築き、砲台としたのが東京湾海堡です。
昭和33年(1958年)3月 米軍撮影
江戸時代末期の文政10年(1828年)11月23日に山口県の岩国で下級武士の子として生まれた西田明則大尉は、もともと実家が岩国藩の普請方・測量方を勤めていたことから工学に詳しかったといいます。
安政3年(1856年)に29才で家督を継ぐと同時に、岩国藩の普請方・測量方として勤めた人物です。
算額にもすぐれ、漢字廃止論を唱えて英語を積極的に学ぶなど、当時としては革新的な人柄だったようです。
時は明治時代となり、44歳となる明治4年(1871年)に山縣有朋に招かれて上京し、翌年には工兵大尉に抜擢され、東京の兵営や士官学校の建築、靖国神社の建築などに功績をあげたあと、50代で東京湾海堡の建設に抜擢されたのです。
西田明則大尉は陸軍技師として小船に乗っては石材運搬船を先導し、自ら潜水服を着て海底の基礎を探査するなどされたそうで、夜の暗いうちに家を出て帰宅は深夜に及ぶことも多かったといいます。
まさにすべてをなげうって、東京湾海堡の工事に身を奉げた西田明則大尉でしたが、明治39年(1906年)、第三海堡の完成を見ることなく亡くなります。
78歳でした。
生前の「海堡を望むことができる場所に墓を建てて欲しい」という遺言に従い、横須賀の聖徳寺に今もお墓が残されているという事です。
なお、台座の碑文については、先達様のサイトに現代語訳に直したものが記載されていますので、リンクを張らせていただきたいと思います。
いま、この巨大な石塔のもとに立って遥かなる明治の時代に思いを馳せるとき、弱小で時代遅れな国だった日本が決死の努力と危機感をもって発展し、ついに列強と方と並べるまでに成長したことをにわかに思い出し、ここに明治の賢人たちの限りない功績と、その下で働いた有名無名の人々たちの姿が、まざまざと思い起こされてくるのです。
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