横須賀の西岸、秋谷を見下ろす一帯は原という地名であり、数軒の家々が木々に抱かれるようにしてあり、遠くには相模灘の果てに秀麗富士山をのぞむ風光明媚な土地柄である。
その原の道路わき、ノッコシと呼ばれる谷戸の道路から一段上がったところに小さな地蔵堂があり、これこそが不思議な伝説を今に伝える原の岩船地蔵尊なのである。
この地蔵堂は、もともとは堂の裏手に墓地をかまえる梶谷家(権座衛門家)が建立したものだと推測されている。今なお、堂の裏手に周れば草に覆われた墓地がひっそりと残り、ここに梶谷家が古くから続いてきた事を示している。
というのも、この梶谷家の墓には岩船地蔵に刻まれた年号と同じ享保13年の墓があり、その墓の主が2歳、7歳、9歳、12歳と続いていることから、親より早くこの世を去った哀れな子供たちをなぐさめ、極楽浄土へと導かせるべくこの地蔵が建立されたのではないか、と「横須賀こども風土記」では推測している。
この梶谷権座衛門家は江戸時代には秋谷の名主を務めた名家で、権座衛門の名を代々受け継ぐ富農であったが、その権座衛門家にはこのような不思議な伝説が残されている。
昔、「むけんの鐘」をつくことによって誰でも富み栄えることが出来る、という噂が広がったことがあり、この噂を聞いたある貧しい農夫が、金持ちになりたい一心で、どこにあるとも分からない「むけんの鐘」を探す旅に出た。
やっとの事で「むけんの鐘」を見つけた農夫であるが、そんな話は嘘であると堂守から言われたのですっかりしょげて、鐘もつかずに帰って来てしまったのである。
それを聞いた農夫の妻は大変おこり、私ならこうやって鐘をついて来るのにと言いながら火箸で茶釜をたたくと、その茶釜はたちまち割れて中から大判、小判が数えきれないほど出てきて、たちまちこの農夫は金持ちになったのである。
その農夫こそが権座衛門家の祖先であり、その時に成し得た財産は尽きることなくますます富み栄えて今に続いているのだという。
この地蔵が、どのようにして岩船地蔵と呼ばれるようになったのかは定かではないという。
いつの頃からか願掛けに船をかたどった石を奉納するようになり、いまなお数多くの岩船が供えられているさまを見ることが出来るが、この事からか船酔いに対しては霊験あらたかであるとして、漁業関係者の信仰は今なお途絶えることなく続いているという。
この地蔵堂裏には梶谷家の歴代の墓が今なお残り、その多くに地蔵菩薩が刻まれていることから、とりわけ地蔵菩薩に対する信仰心も篤かったのであろう。
いま、この地蔵堂の前にひざまづいて手を合わせ、遠くに旋回するトンビの声を聞きながら岩船地蔵に向かい合うとき、幼くして去った子供たちを案じる親の優しい心を表現しているかのような優しげな地蔵菩薩の影に、かつて医療も発達していなかったころの人々の亡き我が子への愛慕の念がそくそくと思い出されてくるのである。