神奈川の西の端、ゆるやかなカーブを描く相模湾の海岸の中に、小さく突き出した真鶴半島という半島があるが、その半島の周囲は古くから漁業の町、石切の町として栄えてきた歴史をもつ。
その真鶴町の海からほど近い住宅街の中に、ひっそりと残された廃寺のあとがあり、数多くの墓石と岩窟が残されているのが見てとれるのである。
「新編相模風土記稿」や真鶴町の郷土史によると、かつてここにあったのは帰命山如来寺という寺であった。
江戸時代初期の元和6年(1620年)に石造の阿弥陀如来を本尊として建立され、のちに瀧本寺の末寺となったが、惜しいかな明治時代の廃仏毀釈によって破壊され廃寺となったのだという。
かつて境内であった場所には今なお石窟が残されて、その中には石造の十王像や聖観音像、地蔵菩薩像などが安置されており、真新しい榊や花が添えられて今でも地域の信仰を集めているのである。
ここに残された石仏たちが、いつどこで作られてここにやってきたのか、詳しい事はほとんど分かっていないというが、享保10年(1725年)に編纂された如来寺財産目録は記録されているというので、相当に古いものである事は間違いなく、恐らく寺が建てられた頃だろうかと推測されているのである。
この石仏は亡者を裁く十王、現世や黄泉の国で亡者を救う大慈大悲の観世音菩薩や地蔵菩薩、奥には仏界の代表でもある阿弥陀如来などが配され、これだけで地獄から人間界、人間界から極楽浄土を表しているとも口伝されており、この石仏をもれなく信仰すれば死後の旅路の安寧と、極楽浄土への道を約束されると信じられていたのかもしれない。
境内の片隅には、もはや詣でる者がいなくなった無縁仏が肩を寄せ合い並んでおり、かつてここが民衆の信心を受けながら、この地域の檀家寺としての役割も果たしていたのであろう。
江戸時代、徳川幕府お墨付きの寺請制度の威光のもと、数多くの破戒僧が民衆を虐げ、搾取し、それに対する反感が廃仏毀釈を助長したという考えも一般的である。
それにしても、色々な時代背景があったにしても、こうして貴重な寺院が数多く失われた悲しき事実と、かつてここで村人の信心を一身に受けておきながらホコリをかぶり苔にまみれた石仏の前に立ち拝むとき、ここにも時の流れというものの無慈悲さを実感せずにはおれないのである。