横浜市港南区を南北に横断する鎌倉街道の、日野インターチェンジを起点として北側に春日神社や徳恩寺がある。
このあたりはもともとは宮下村といって、春日神社の前から洋光台方面へと上って行く道は通称「峰の道」「灸点道」と呼ばれていた。
江戸の方から鎌倉街道を下り、当時観光名所となっていた峰の灸(護念寺)や阿弥陀寺へと抜ける街道だったのである。
この道と、笹下の方から降ってくる道が交差する辻のところには、かつて観音堂があったと伝えられている。江戸時代のいつだったか、この観音堂の堂守が強盗に殺されてからと言うもの、観音堂に悪戯をすると祟りがあると噂が立ち、そのまま荒れ放題となった観音堂はいつしか廃絶してしまったのだという。
古老の言い伝えによれば、このあたりは根岸線が開通するまでは人家もまばら、起伏に飛んだ山あいの土地であった。至る所に湿地があり、沼があり、その周囲には人の背丈よりも高いアシなどが茂っている寂しいところだったという。
特に磯子区と港南区の境にある急坂を「さわげ坂」といっていた。
この辺りには、古くから「さわげ婆」という、白い着物に身を包んだ妖怪が現れては、村人をあの世へと連れて行ってしまうとされて大変恐れられていたという。
さわげ婆を見たものは例外無く三日三晩うなされ、もがき苦しんだ苦悶の表情のまま、そのまま還らぬ人となってしまうというのである。
その顔立ちは恐ろしいというよりも、どこにでもいるような顔立ちである普通の老女のようだというのが定説で、よく「まんが日本むかしばなし」に出てくるような、誰が見ても分かりやすい鬼婆の姿ではないのだという。
いっぽう、この街道ぞいの徳恩寺は、新四国東国八十八ヶ所霊場の六十九番目の札所であった。そのため、熱心な巡礼の信者が常日頃から白装束に身を包んで、次の札所の阿弥陀寺に向かう行列をなしていたという。
巡礼での白装束は現代においても正装であるから、今なお坂東三十三観音霊場などで見ることができるが、そのような巡礼の女たちが、草深い山道を「ざんげ、ざんげ」と唱えながら通って行ったという伝承も残されている。
子供たちは、このような珍しいものにどこまでもついて行く性質があり、みうけんも幼い頃にゴミ収集車について行って迷子になった経験があるが、もしかすると「さわげ婆」というのは、子供たちが巡礼の後についてどこか遠くへ行ってしまわないように、という戒めの意味もあったのかもしれない。
当時の子供達にとって、親からの「ざんげについていくでない!」が、いつの間にか「さわげ婆を見たら死ぬ」と変節したと考えることも充分に考えうることである。
いま、時代は流れてこの界隈では巡礼の姿も見なくなり、昼なお寂しい山河は切り開かれて住宅街へと大きく変貌したが、細く曲がりくねった峰の道は当時の姿をよく留めており、かつてこの道を数多くの巡礼の艶姿の女たちが錫杖やカネを鳴らしながら、または口々に懺悔と読経を唱えながら歩いて行ったのかと思うとき、ここにも隠された歴史と民話の奥深さを噛み締めるのである。