茅ヶ崎市と寒川町を隔てている小出川は、かつては間門川と呼ばれていた。
この川はもともと相模川の支流であり、今なお河川敷は大きく護岸されてもいないために、水鳥や小魚たちの楽園ともなっている。
この小出川には、昔から河童伝説が残されている。
今で言うところ、県道・相模原藤沢線が小出川を渡る「大曲橋」(旧名:間門橋)というものがあり、この橋じたいは架け替えられて近代的な橋になっているのであるが、この橋の脇には今なお「間門川伝説 河童徳利 発祥の地」という看板がかけられて、この伝説を今なお語り継いでいるかのようである。
昔、江戸時代のころに、今の茅ヶ崎市にあたる西久保村に五郎兵衛という馬方が住んでいた。
この五郎兵衛はたいへんな働き者であったが、酒好きでもあったので、いつでも酒の入った徳利を身につけていた。
ある日のこと、間門川の今の大曲橋のあたりで馬を洗っていると、突如カッパが現れて馬の尻尾にしがみつき、水の中に引きずり込もうとしたのである。
驚ろいた五郎兵衛は慌てて手元にあった桶を投げつけ、その桶がうまいこと河童の頭に命中すると、河童はすっかりのびてしまった。
河童を生け捕った五郎兵衛は、そばの木に河童をくくりつけておいたが、河童が目を覚ますや自らの境遇を理解したのであろう、命だけは助けてくれと泣きながら五郎兵衛に詫びを入れ始めたのだという。
話を聞くと、その河童は間門川に古くから住んでおり、かわいい我が子にうまいものを食べさせてやりたい一心であったこと、もし河童が帰らなければ子供たちも腹をすかせて泣きながら死んでしまうであろう事を切々と訴えてきた。
もともと心根の優しかった五郎兵はすっかり河童の事が気の毒になり、縄を解いて逃がしてやったのだという。
その晩、寝静まった五郎兵衛を誰かが玄関の外で呼んでいる。
こんな夜中に、いったい何事かと五郎兵衛が戸を開けると、そこには昼間の河童が立っていた。河童は昼間に助けていただいたお礼がしたいのだと言い出して徳利を差し出すと、「この徳利は、酒が絶えること出てくる不思議な徳利です。しかし、徳利の底をを3回叩くと、酒は出てこなくなります」という。
五郎兵衛は半信半疑で徳利の中の酒を飲んでみたが、これがまた美味いこと美味いこと。しかも、いくら飲んでも、また徳利を手にしたときには徳利の口まで並々と酒が詰まっている。
もともと酒好きであった五郎兵衛はあっという間に酒のとりこになってしまった。
碗に酒をついでは呑み、ついでは呑みをして日々を過ごすようになった。やがて仕事にいく事も忘れ、顔を洗う事も忘れて、朝から晩まで酒を飲んで過ごす日々であったという。
そんな日々が続いたある日、すっかり酔って寝ている五郎兵衛のもとに、悲しそうな馬の鳴き声が聞こえてきた。
我に返った五郎兵衛が厩に行ってみると、飼っていた馬がいかにも懐かしそうに五郎兵衛を見つめていななくのである。
馬はすっかり痩せこけて、毛並みは乱れて糞尿に汚れ、見る影もない。
五郎兵衛は、河童徳利の酒の虜になるあまり、命より大切にかわいがっていた馬の事をすっかり忘れていたのである。
今までの事を悔いた五郎兵衛は、馬に抱きついて涙が枯れるまで泣くと、家に戻って河童徳利の底をポン、ポン、ポンと3回たたいた。
これにより、河童徳利から酒は出る事はなくなって、五郎兵衛はもとの働き者に戻り、馬はまた大切にされて幸せな一生を終えたという事である。
この話に出てくる馬方の三堀五郎兵衛は実在の人物で、江戸時代の宝暦年間(1751~1764年)に生まれ、文政7年(1824年)に死んだとされる。宝暦最後の年である1764年に生まれても60歳前後も生きたようであるから、当時としては長生きだったのだろう。
もともと、その墓が茅ヶ崎市に残っていたが、昭和54年に静岡県の智満寺に移っていったという。
「河童徳利」といわれる物も残されており、高さ21センチあまりのもので、3合の酒が入るものであった。長らく大山街道沿いの見世物小屋に飾られては大山詣の参詣人の人気を集め、大正2年には横浜の野沢屋で開催された「県民政資料展覧会」にも出品されたという記録がある。
関東大震災のときから行方不明になっていたが、現在は静岡県に住む五郎兵衛の子孫の元に伝わっているといわれている。
今となっては、どこまでが実話でどこまでが寓話なのか、知る由もない。
だが、三堀五郎兵衛の墓も河童徳利といわれる物もこの地からは引っ越していったが、今なお河童にまつわる伝説は確かにこの地に息づいており、近くの輪光寺には水甕に浸かる河童の姿を見る事ができる。
晩秋のこの日、静かに流れる小出川の流れを橋の上から眺めていると、時代は変わり文明が発展した今の時代にあっても、川底に潜む河童がひょっこりと顔を出してくるかもしれないような、不思議な感覚に襲われるのである。