横須賀市平作の、「瘡守稲荷」で知られる大蔵寺(だいぞうじ)のあたりは、俗に明登山(みょうとさん)と呼ばれ、今なお緑豊かな小山を背にして静かにたたずむ古刹である。
境内に入ってすぐに目に入るのは、注連縄を巻いた見事な槇の木で、この大木はこの寺が創建されたときに植えられたものと伝えられているのである。
この寺の由緒書きによれば、ここに寺が設けられたのは天文21年(1552年)であり、妙応院日善が現在地の南麓に小庵を建て、立正安国の法華経弘通の道場とされた。
その後、永禄2年(1559年)10月、第三世となる智教院日昌が堂宇を栄地谷(現在地)に建立し山号を明登山、寺号を大蔵寺と命名し今日にいたるとされる。
江戸時代の宝暦4年(1754年)には境内鎮護のために稲荷明神が勧請されたのであるが、神仏習合の頃だったので、お寺と神社がともにあるのは至極当たり前のことであった。
この稲荷については、このような逸話が残っている。
文化元年(1808年)、浦賀の地で名をはせていた郷土力士、岩男浪磯吉(いわおなみ・いそきち)という者がいた。
この岩男浪は三浦半島にあった三浦相撲の力士であったが、江戸相撲の力士に出世できるほどの実力があったとされる。
寛政年間(1789~1801年)のこと、この勝負に勝てば江戸相撲に入れるという勝ち抜き戦を前にして岩男浪は運悪く皮膚の病にかかり、全身に「瘡」(かさ。はれもの、ただれ)が出来て、相撲どころの話ではなくなってしまったのである。
どんな薬を飲んでも、名医を連れてきても一向に瘡はよくならず、何かの祟りではないかという噂話まで出たころ、村の長老から大蔵寺の稲荷明神の話を聞かされたのである。
何でも、ずいぶん前に江戸で疱瘡という恐ろしい病気がはやった時、大蔵寺の和尚さんがお稲荷様を祀って、病気が村に入ってこないようにと祈り続けたお稲荷様だというのだ。
この大蔵寺のあるあたりは江戸と浦賀の通り道であるから、江戸の悪病が入ってこないようにと祈り続け、それいらい悪病退散に霊験あらたかとして、信心を集めているらしい。
そこで、岩男浪はこの境内の稲荷様に一心に祈ると、瘡はたちどころに治り、その好機をものにすることができたのだという。
これに感謝感激した岩男浪は、京都へ赴くと伏見稲荷に参拝して正一位の稲荷をさずかり、それを大蔵寺に勧請したというのである。
入り口に白い狐が座る瘡守稲荷は、いまも境内の右手に祀られており、特に「瘡」というのは梅毒の俗名でもあることから、性病に関してききめがあるお稲荷様とされ、近在の人や廻船に乗る船乗り、近くの横須賀や三崎の遊郭の女郎、遠くは藤沢や戸塚の宿場女郎たちからも大変な人気があったという。
いま、この瘡守稲荷は日蓮宗の寺にあるお稲荷様であることから、日蓮上人にかかわりの深い22日が当たり日で、2月22日には今でも多くの参拝者が詰めかけるそうで、ここにも絶えることなき民衆の信仰心が息づいているかのようである。