境川の藤沢市より、湘南台のあたりで川沿いを走る生活道路を北上していくとやがて境川沿いから離れ、河岸段丘のふもとに沿って農地のわきを走る道へと変わっていきます。
このあたりは左側に迫る木々をひかえ、右手には田畑が広がり、その向こうには境川が流れるという典型的な河岸段丘の光景を見る事が出来ます。
やがて、鬱蒼と茂る森の中に小さな案内看板が立っているのを見つける事が出来ます。
よくよく注意していなければ通り過ぎてしまうような看板で、実際みうけんも携帯のナビでここまで来たのに、一度は通り過ぎてしまいました。
この看板のたっているところは、木々の中に埋もれるようにして崖となっていますが、その崖からは水がにじみだしていました。
これらの水がすべて集まって境川を形作っているわけですが、その脇には石造の弁財天座像が祀られており、この弁財天は地元では「せき神さま」「お滝ばあさん」と呼ばれて親しまれているのです。
この弁財天像には、向かって右手に「相州 七ツ木村」、「元禄四年辛未」、左手には「?月十八日」と陰刻されています。
月の部分は崩れていてはっきり読み取れませんでしたが、案内看板によれば元禄4年(1691年)11月18日付だそうで江戸幕府の第5代将軍である徳川綱吉公のころのものです。
頭上には鳥居の中に宇賀神のようなものを頂き、右手に宝剣または笏(しゃく)を、左手には宝珠をお持ちになっています。
右手にお持ちの物が宝剣または笏かは不明ですが、もし宝剣であれば菊名池弁財天のお姿に似たものがあります。
また、その台座にはこの弁財天像を建立した神山太郎兵衛ほか有志11名の名が刻まれています。
正直のところ、この弁財天像が祀られた由来については2つあります。
境川に身元不明の死体が上がったので、地元の農民たちの話し合いにより、供養のためのお金を出し合い、水を司るとされる弁財天(像)を造り、ここに祀った。
地元の農民たちが稲の豊作を願い、境川の氾濫などによる水害防止を祈願するため、水の神である弁財天像を造り、祀った。
とあり、どちらが正しいのかはっきり分かっていないそうです。
この弁財天座像は地元の人々から通称「せき神様」、また親しみを込めて「お滝ばあさん」と呼ばれていることは先にも述べた通りです。
名前の由来は、昔この地に住んでいた「お滝ばあさん」が喘息に苦しんでいたところ、ここに湧き出ている水を飲んだら全快したという故事によるものです。
きっと、今も昔も変わらぬ境川のこの光景を、お滝ばあさんも眺めていた事でしょうか。
この弁天さまは、一見してどこにでもありそうな路傍の石仏にも、こうしていろいろな謂れがある事を思い知る良い例だと思います。
どの石仏だって、どんなに古くても、小さくても、崩れていても。
その石仏を建立された理由があり、建立した方々の並々ならぬ思い入れがあったものです。
そして、その石仏が路傍にある百年、二百年の間に、人々の祈りが重ねられていろいろな逸話が後付けされていく過程を考えていると、まさに神仏に対する里人たちの親しみが感じられるようで、一抹の感慨を覚えるのです。