庚申塔 の検索結果:
…お堂に入った六地蔵や庚申塔が所狭しと並べられているのが見てとれる。 これは傍示堂(ほうじどう)石仏群といい、この近辺の浦賀道に祀られていた6地蔵や庚申塔を集めたもので、もともとはもう少し分散して祀られていた石仏たちであろうか。 かつて、このあたりは鷹取山に連なる山々が続く険しい山道で、その山を貫く「浦賀道」が通っていた場所である。 その中でも、このあたりは現在の追浜である浦郷村と、現在の金沢区六浦の六浦荘村との境であった上に、相模・武蔵の国境線でもあったことから、隣の村から悪…
…あり、入り口に小さな庚申塔が立っているので、何かがあるという事がかろうじてわかる程のものである。 入り口の石段の下にある庚申塔は元禄10年(1697年)と古いもので、石段を登った境内には御所台のお地蔵さまを中心に、貞亨3年(1683)や元禄8年(1695)など古い庚申塔が並び、その庚申塔も地蔵形や青面金剛など種類も豊かである。 これらは全て竹林に埋もれるようにしてあり、長い日々の間にすっかり苔むし、お顔が崩れてしまっているものも多いながら、今なお新しい赤頭巾がかけられてお神酒…
…め、周囲には道祖神や庚申塔、寺社が数多く残されている。 その中でひときわ目立つのが藤沢で「おしゃれ地蔵」として地域の信仰を今なお集めている双体の石仏像なのであり、そのおしゃれ地蔵は簡素な地蔵堂の中にちんまりと納められているが、常に真新しい花が絶えることもなく、時折とおりすがりの女性が拝んでいくのを目にすることができるのである。 この石仏はお顔の表情すら明らかではなく、周囲の光背にはコンクリートが塗りたくられておりその詳細は全くわからないが、ひときわ目立つのは白く白粉を塗られた…
…を救済する六地蔵や、庚申塔、「南無妙法蓮華経」の文字が刻まれた題目塔などが今なお多く残され、黒石や塔の石とともに、これらがかつての古戦場であった所にふさわしい雰囲気を醸し出しているのである。 いま、戦乱の時代ははるか昔へと過ぎ去り、今となってはトンビが悠々と旋回し、ほのかな潮風を感じるのどかなところであるが、紛れもなくこの地も戦場となり、数多の者が命を落とした事であろう。 いま、南無妙法蓮華経と陰刻された御首題塔が居並ぶ丘の上から眼下の家並みを眺めるとき、かつてここで散って行…
…なぜか犬小屋に入った庚申塔があったりして面白い。 「わがまち港南の石仏たち」によれば、この庚申塔は平成にはいってからのもの。平成の時代でも庚申信仰がいまだ根付き、夜を徹しての庚申講中が開かれたりしたのであろうか。犬小屋に入っているため背面などを読み取れないだが、実に興味深いことである。 蛇足だが、お供えのパック酒は誰かに飲まれてしまったのであろうか。 この庚申塔のある道から外れて急な坂道を登っていくと、とても車では入っていけないであろう細い路地がいくつも連なり、さながら迷路の…
…事から、日蓮宗部落の庚申塔である事が読み取れるのである。 この庚申塔は目立たない庚申塔であるばかりか、かなり目を凝らさないと陰刻の文字すら判読が難しいが、昭和45年に葉山町の指定文化財に指定されており、個人の所有ながら実に大切に守られてきたのである。 もともと、この木古庭や隣の阿部倉のあたりは日蓮宗の霊跡も数多く残され、日蓮宗の開祖である日蓮聖人の霊跡も残されている由緒あるところである。 www.miuken.net 庚申塔はふつう青面金剛像を中心に据え、青面金剛が踏みつける…
…で、この寺には珍しい庚申塔が残されている。 三浦半島にはもともと庚申塔がものすごく多く、道を少し歩けば必ず見つけることができる。そのうちの何点かは当ブログでも紹介させて頂いたとおりである。 www.miuken.net 基本的に庚申塔は上部に日月の刻印、正面に青面金剛を据えて邪鬼を踏ませ、さらにその下に見ざる・言わざる・聞かざるの三猿をあしらうか、またはただ漢字で「庚申塔」と陰刻しただけの物が多いのであるが、この専養院の庚申塔は一面に「庚申塔」の文字が刻まれた珍しいもので、地…
…きたのも滝口家や雲海上人のおかげであるとして、枯れてしまった桜の老木を切って滝口盛定の像を刻んで祀ったのだという。 それから時は流れ、残念なことにその像は紛失されてしまったというが、この地には今なおこの伝説が語り継がれ、伝説として生き続けている。 ここにも、境内に並んだ沢山の石祠や庚申塔のごとく連綿とした時の流れを感じることができ、聞くも不思議な湧き水と捨平の伝説に触れて小さな神社に手を合わせるとき、確かにこの村に生きた人々と捨平の息吹が感じられるようで感慨もひとしおである。
…、路傍の石仏の中でも庚申塔の青面金剛に次ぐ多さであると思うし、今となっては新しく祀られる事も減った庚申塔などに比べると、交通事故の現場などに新しく祀られる事も多いであろう。 また、日本の民間信仰では賽の河原で迷う子供の霊を極楽へと導くという伝承などから「子供の守り神」として信じられることが多かったのである。 かつて、日本では子供が無事に生き延びてすくすくと育つ、という事が実に難しかったようである。 そのため、せっかく生まれた可愛いわが子が途中で死んでしまったりしないよう、子供…
…う。 門前にも一基の庚申塔が経っているが、この庚申塔は張りだした塔頂部と日月の紋章を入れた典型的な庚申塔でありながら、下の方にわずかに三猿と思われる痕跡を残すのみで、その表面はすっかり削り取られてしまっているのである。 日月の月などは長い間の潮風に削られて自然と丸みを帯びたのであろうが、この明らかに人為的に削り取られたであろう庚申塔も、明治の初期に全国に吹き荒れた廃仏毀釈の被害者であろうか。 今まで数多くの石仏を見てきたが、その中には真っ二つに割られてしまったものや首を落とさ…
…7年(1710年)の庚申塔(右)、天保2年(1831年)の観音像(左)などが残されているが、今でも地元の人から大切にされているのか境内は綺麗に掃き清められ、美しい新緑の玉竜と真新しい花束が彩を寄せているのが見てとれるのである。 ところで、ここから発掘された人骨は南西に1.5キロの地点、平戸交差点に近い東福寺に祀られているのだという。 東福寺は山号を永谷山と号し、臨済宗円覚寺派の寺院であり、開山は建長寺の僧養谷であるとも、応永8年(1401年)に大雅が創建したとも言われている。…
…かに残る畑と、路傍の庚申塔がかつての新羽の暮らしを今に伝えているようである。 この地域に伝わる「おいづか」の話は、地元の新羽小学校でも教えていないであろうか。 実はみうけんは、かつて新羽に住んでいたことがあり小学校も新羽小学校の出身であるが「おいづか」の事を知ったのはずっと後になってからの事であるし、クラスメートの間でも地域史研究の授業でも「おいづか」が話題に上った事はなかった。 それでも、人々から忘れ去られまいとするかのように今日も塚は聳えつづけ、道向かいの真新しいマンショ…
…とどまらずに歴史ある庚申塔や忠魂碑が境内には並びたち、まるで開山から今までの歴史を垣間見るようである。 このように境内の本堂や石塔群に目が行きがちな専念寺であるが、入口の脇には一基の苔むした石塔が立っており、これこそが廻国行者として名高い徳本上人の揮毫石塔なのである。 徳本上人は江戸時代に庶民に信仰を広めるため、わずかな布施をたよりに全国を行脚し、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることにより人々は救われると説いた。 その高徳と人気はとどまるところを知らず、帰依した信者…
…に面した道路沿いには庚申塔や馬頭観世音をはじめとした石仏が今なお人々の暮らしを無言で見守り続けているのである。 馬頭観世音の成立には諸説ある。 梵名のハヤグリーヴァは「馬の首」の意であるとされ、ヒンドゥー教では最高神ヴィシュヌの異名でもある。 馬頭観音は一般的に「馬頭観音菩薩」「馬頭観世音菩薩」「馬頭明王」「大持力明王」など、いろいろな名前で呼ばれ親しまれてきた。 もともとは衆生の無智と煩悩からくる罪業を退ける菩薩であるとされていた。 馬頭観音像というのはただの石柱に文字だけ…
…、それが鳥居前に並ぶ庚申塔と石仏の群れなのである。 実はみうけんは10年前まで、ここ上飯田町にアパートを借りて住んでいたのだが、ここは今でもたまに訪れている大好きな場所である。 庚申塔は一見して何の変哲もないが、庚申塔の脇にはおそらく観音であろうか、7体のむっちりした石仏が思い思いの表情としぐさで道ゆく人を見守っているのである。 そのお顔は削れてしまい判別のつかないものもあるが、ふくよかで優し気な表情にはどことなく気品もただよい、ただならぬ威厳も兼ね備えた稀有な秀作であるとい…
…う細い道に、名も無き庚申塔の群れがある。 庚申塔自体は三浦半島では何ら珍しいものではなく、文字通りそこらじゅうにある物だが、その中には時として見事なまでに優美な造形やユーモラスな造形のものがあり、現代人の目を楽しませてくれると共に、当時を生きた人々の深い信仰心を感じる事ができる。 この庚申塔群は柵に囲まれ近づけないので建立年代こそ分からないものの、さしたる摩滅もなく綺麗な状態で残っている。 この青面金剛の、ユーモアあふれる翁面のようなお顔の中にはどこか言い知れぬ悲壮感を漂わせ…
…? 他にもたくさんの庚申塔や馬頭観音とともに、今でも道行く人を見守っています。 続いては、伊勢原市粟窪の例。伊勢原市粟窪216 年代不明。説明板によると江戸赤坂見附から来て、大山方面、八王子方面、飯山観音方面と交差する主要な辻だったようです。 横の石仏は廃仏毀釈の被害者か? 取れてしまった首を、金属製のカタマリで補修してありました。 続いては、伊勢原市下落合の長沼不動明王。 長沼不動明王(大山道標)伊勢原市下落合539付近 こちらは天保六年、1835年。184年前の江戸末期に…