相鉄線いずみ中央駅を降り、駅前の長後街道を藤沢方面に向かうと、境川の手前に「上飯田団地入口」という四つ角がある。その四つ角を右に折れて北上していくと、道沿いにはいかにも古そうな、静かで小さな神社があるがこれこそは飯田神社といい地元の崇敬を今なお篤く集めている神社なのである。
飯田神社は境川沿いに広くみられる「サバ神社」のうちの一つである。
鯖神社とも左馬神社とも書かれる神社群であるが、その祭神は鎌倉幕府を開いた源頼朝の父である源義朝、さらに宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と大山咋神(おおやまくいのかみ)であり、どちらも農耕に深いかかわりを持つ神様である。
この地に神社を創建したのは飯田五郎家義という在郷の武将であるとされ、その生年月日は明らかでないものの平安時代末期から鎌倉時代初期の武将という事であるから、この神社の創建もそのころであろうか。
ちなみに、この神社の南側3キロの地点には、飯田五郎家義の居城であると伝えられる富士塚城址の碑がある。
現在でもこの神社は地元の崇敬を集め、近年でも地元有志によるお囃子などが連綿と受け継がれており、地元の伝統行事が皆無というに等しい地区に住むみうけんにとってはうらやましい限りである。
さて、その飯田神社には立派な梵鐘がある。
梵鐘、鐘といえばお寺にあるイメージであるが明治政府により神仏分離令が出されて強制的に分けられるまでは、神仏習合といって神と仏は一体のものであり、それゆえ今のように神社と仏閣は明確には分けられていなかった。
そのため、今でも湘南の藤沢や県央の厚木、伊勢原などには梵鐘を備える神社は多く残されており、平塚市出縄の粟津神社などはその好例である。
さて、この飯田神社の梵鐘は実に立派である。
もともとは相当に古い鐘があったというが大東亜戦争のころに持ち出され、溶かして砲弾などの武器へと姿を変えてしまった。
人を救うための宗教、人を癒すための梵鐘を人殺しの道具に化かしてしまうとは、これほどまでに神仏を愚弄する話があるだろうか。
そんな紆余曲折を経て、今の梵鐘は地元有志により昭和46年に再建されたもの。
この梵鐘は自由につくことができるので、訪れた方にはぜひともついて頂きたい。
心を鎮めてつくと清らかな音色が上飯田の街に響き渡り、実に清々しい。
みうけんの知る某寺などは、毎朝毎晩決まった時間に鐘をついてると思えば、すっかり手を抜いて自動鐘つき機に任せ、ボーズは外車でウキウキ出かけて行く堕落っぷり。
かと思えば、飯田神社から南東に500メートルくだった無量寺というお寺では、毎朝毎晩、一日も休まずにお坊様が手を合わせて丁寧についていらっしゃる。
(「ボーズ」と「お坊様」の表現の違いに注目)
同じ寺でもここまで違うのか、と悲しいため息が出るのである。
さて、ここの飯田神社には個人的にもう一つの見どころがあり、それが鳥居前に並ぶ庚申塔と石仏の群れなのである。
実はみうけんは10年前まで、ここ上飯田町にアパートを借りて住んでいたのだが、ここは今でもたまに訪れている大好きな場所である。
庚申塔は一見して何の変哲もないが、庚申塔の脇にはおそらく観音であろうか、7体のむっちりした石仏が思い思いの表情としぐさで道ゆく人を見守っているのである。
そのお顔は削れてしまい判別のつかないものもあるが、ふくよかで優し気な表情にはどことなく気品もただよい、ただならぬ威厳も兼ね備えた稀有な秀作であるといえる。
これらの石仏にはいつも真新しい花や飲み物が備えられ、時として地域の住民が落ち葉などを掃除している姿もみられ、今なお続く信仰の深さと神仏への畏敬を物語っているかのようである。
いま、この石仏の前にしゃがんで手を合わせ、じっくりと向き合って見つめていると、かつてこの里に生き農耕に勤しんだ里人の、五穀豊穣の願いが聞こえてくるようで、また村人が道ゆくたびに一心に手を合わせ幸多かれと願った姿が目に浮かぶようで、今なおその息遣いが鮮明に伝わってくるようで、実に感慨深いのである。