相鉄線の二俣川駅を降りて北側の坂をひたすら登ると、神奈川県内でも二俣川の知名度を一気に押し上げる運転免許試験場がある。
その坂の途中には、休日急患診療所があるあたりにも新たに運転免許を求める人たちがたむろしては、いつも大変なにぎわいであるが、その片隅にひっそりと忘れられたように残された子育地蔵尊の地蔵堂がある。
道路からはフェンスで区切られているが、誰でも門を開けて参拝できるようになっているこの地蔵菩薩は、地元では子育地蔵菩薩として信仰されているようで、お堂には今なお真新しい「南無子育地蔵菩薩」の幟が奉納されているのである。
また、通常は赤頭巾と赤い前掛けを着けていることの多い地蔵菩薩であるが、こちらの子育地蔵菩薩には白頭巾と白い前掛けが奉納され、今なお真新しい花も添えられて大切にお参りされているのが見てとれるのである。
もともと、地蔵菩薩はサンスクリット語でクシティガルバ(क्षितिघर्भ)と呼ばれ、その真意は「大地の胎内」「大地の子宮」の意味であるが、意訳して「地蔵」と呼ばれているものである。
大地が全ての命を育む力を持つが如く、苦悩に悩む人々や、死出の旅で行く先を見失った亡者の霊を、その無限の大慈悲の心で包み込み、老若男女問わずあまねく救う所から名付けられたと考えられている。
地蔵菩薩の多くは「意のままに願いを叶える事ができる如意宝珠」(にょいほうじゅ)や、「高い音色で猛獣や毒蛇を退け、また煩悩を取り払い、持つ者に智慧を授ける錫杖」(しゃくじょう)、または「どこからでも地蔵菩薩の居所がわかり、死出の旅に迷う亡者をあまねく導く旗印としての幢幡」(どうばん)を手に持っている場合が多い。
日本ではとりわけ人気が高く、路傍の石仏の中でも庚申塔の青面金剛に次ぐ多さであると思うし、今となっては新しく祀られる事も減った庚申塔などに比べると、交通事故の現場などに新しく祀られる事も多いであろう。
また、日本の民間信仰では賽の河原で迷う子供の霊を極楽へと導くという伝承などから「子供の守り神」として信じられることが多かったのである。
かつて、日本では子供が無事に生き延びてすくすくと育つ、という事が実に難しかったようである。
そのため、せっかく生まれた可愛いわが子が途中で死んでしまったりしないよう、子供が大好きなお地蔵様にその願いを託すという事が盛んに行われるようになったのであろう。
また、江戸時代の「○○童子」「○○童女」と彫られた子供の墓石にも地蔵菩薩が多く彫り込まれていることから、当時の人々の地蔵菩薩に対する一途な思いが垣間見えてくるのである。
いま、医学も発達し、経済発展のために栄養状態も良くなり、子供が飢えや病気で命を落とすことなくすくすくと育つことが当たり前のように思われる世の中となった。
しかし、かつての日本では多くの子供が生まれてすぐに帰らぬ人となった、生きることそのものが厳しかった時代が確かにあり、この地蔵の前では多くの若い夫婦が一心に祈りをささげたのであろうことを思うとき、ここにも生のはかなさと無情がそくそくと思い起こされるのである。