横須賀の衣笠や佐原の一帯は、かつては三浦一族の拠点として多くの城郭が築かれて栄え、歴史の舞台としても有名なところであるが、現在では閑静な住宅街であり史跡も目立たずといった感じがあるので、何も気を付けて居なければそのまま通り過ぎてしまうような街である。
その一角に大矢部という町があり、住宅の合間にひっそりと児童公園があるのだが、この公園は「腹切り松公園」といって、およそ児童たちが楽しく遊ぶには程遠い血なまぐさい名前を今に伝えているのである。
この公園に入ってみると、平日の昼間ということもあろうが誰もおらず、静かに静まり返っていた。これといって目立つ遊具もなく、どちらかと言えばただの広場と表現しても差し支えないであろう。
その一角に、比較的樹齢が若い松の木と、その木に守られるようにして建つ慰霊碑があり、これこそが公園の名の由来ともなった三浦大介の腹切り松とされる松なのである。
時は治承4年(1180年)のことである。
この地域には三浦大介義明を筆頭とする三浦一族が勢力を張っていたが、源頼朝が源氏再興の旗揚げをすると三浦一族は源氏がわに与して戦うことになる。
それに反した平家方に付いた江戸重長・河越重頼・畠山重忠・金子家忠ら3000騎の大軍は三浦一族の拠点である衣笠城を責め、これを陥落させてしまう。
その際、三浦大介は89歳の老齢で、一族を房総半島に逃したことを見届けるや、衣笠城と運命を共にせんとこの地に単身残って奮戦したという。
やがて、一説によれば三浦大介は祖先の眠る円通寺(現在は海上自衛隊の駐屯地となった)を見渡すこの地に一本の松を認めると、その松の木の下で壮絶なる割腹自害を遂げ、その武名を後世まで残したのであるという。
その後、源氏再興に成功した源頼朝は、三浦大介の武功と誠忠を高く評価し、三浦大介の菩提を弔うべく堂宇を建立したが、その堂宇こそが今も残る満昌寺であると伝えられているのである。
かつて、ここにはかなりの老木となった松があり、大矢部の里人たちは腹切り松と呼び親しんで、その武勲を代々語り継いできたという。
いま、時の流れに抗えず松の木は代替わりをしたものの、その武勲は今なお公園の名となり、慰霊碑はその逸話を顕彰し続けているのである。
この地で三浦大介義明が本当に割腹をなしたのか、実の所本当の話かどうかは分かっていないという。
だが、今なおこの逸話は語り継がれ、行政と里人ともに大切に守り続け、時おり犬を散歩するご婦人が手を合わせて立ち去るのを見るとき、800年900年経っても忘れられない三浦一族に対する里人たちの畏敬の心が見えてくるようで、涼しさを増す秋風の中にも三浦一族郎党のついえる事なき鬨の声がよみがえってくるかのようである。