相鉄線の西谷駅と鶴ヶ峰駅のちょうど中間あたりは小高い丘を切り開いて築いた新興住宅地であるが、その丘を登りきったあたりに、居並ぶ住宅の陰に隠れるようにして、ひっそりと小さな祠が建っているのが見てとれる。
ここまで来ると住宅街の奥深くである。
地元の住人でもなければ決して通ることのなさそうな道端にあるこの祠は、地元では「愛宕様」として特に親しまれている。
むかし、この辺り一帯は愛宕山と呼ばれる丘であった。
かつて、このあたりには立派な塚があり、掘ってみるとおびただしい数の刀剣が出てきた。
その刀塚の跡に目印として、いつしか小さな祠が建てられて子育地蔵菩薩が祀られたのだという。
剣の出土した塚は、今となっては住宅地としてすっかり開発され尽くして、最早みる影もないが、古地図を見れば少なくとも明治初頭の文明開化の頃には、周囲を見下ろす高台だったことがよく分かるのである。
この塚は学術的な調査は何もなされないままに消滅してしまったが、口伝では防人の妻の服部呰女(はとりべのあため)が葬られたという塚であるとも、また一説には源義家が奥州から凱旋した際に戦勝を記念して愛剣を埋めた塚であるとも、または近くで起きた畠山重忠の乱の後に、亡くなった将兵の刀剣を集めて埋めたとも、落ち武者狩りで奪った刀剣のうち価値が無さそうなものなどを埋めたとも、色々な言い伝えが残されているようである。
地域資料によると明治時代の初めに剣が出土した塚に、目印として子育地蔵菩薩が安置されたとあるが、この子育地蔵尊は徳川11代将軍家斉公のころ、寛政10年(1798年)のものであるから、このあたりの話の整合性はどうだろうか。
また、現在の祠の位置も宅地造成に伴って移転を繰り返したため、元々の位置はもう分からないんですよ、と地元のご婦人から貴重なお話を頂いた。
それでも、この愛宕様の子育地蔵菩薩像を眺めるとき、かつて子供が大人になる事すら容易ではなかった、生きる事すら難儀であった時代に、村々を一望するこの丘の上で、我が子が健やかに産まれて育つようにと一心に願いをこめ、優しく微笑む地蔵菩薩の前に額づいて祈りを捧げる若い夫婦たちの姿が今なお目に浮かぶようである。
時は流れて、時代は平成から令和へと変わったが、今なお子育地蔵菩薩はその優しげな微笑みを変える事もなく、高い丘の上から眼下に衆生の営みを見守り、また近くの学校や幼稚園を登下校する元気な子供たちの笑顔にいつも寄り添っては日々の安寧をもたらしているかのようで感慨もひとしおである。