三浦半島の西の端、横須賀市長井のあたりは交通の便もあまりよくなく、そのせいかソレイユの丘を除いては遠くからの観光客が訪れることもあまりなく、平日の日中ともなれば人気も少なくのどかな農村地帯が広がるところである。
この長井の里にある長徳寺はもともと行基菩薩が開創されたといわれている天台宗の古刹であり、その後三浦一族の祈願寺などとなって隆盛を極めたが、現在は浄土真宗のお寺となっており、不思議な伝説を今に伝えていることは以前にも紹介したとおりである。
この長徳寺の裏側に広がる墓地の片隅には、丘の上から墓地を見下ろすようにしてぽつんと建つ地蔵堂があり、中には面長のお地蔵様がお座りになっておられ、今なお真新しい赤ずきんとよだれかけ、たくさんの千羽鶴が奉納されて里人からの信仰も篤く、大切に守られているさまが見て取れるのである。
このあたりは、かつて火葬場があったところからヤキバ地蔵という名前で呼ばれた時期もあったそうだが、このお地蔵様は広くはポックリ地蔵という名前で広く親しまれているのである。
このお地蔵様が、なぜポックリ地蔵と呼ばれるようになったかについては、このような言い伝えが残されている。
むかし、この辺りに寝たきりの爺さまと、働き者の婆さまと住む、「美津」という娘がいた。
この爺さま、昔は気性も荒く腕っぷしも強い漁師であったが、ある日から病の床に臥せるようになると、ずっと寝たきりで婆さまに看病してもらう日々が続いていた。
爺さまは病となれども気性の荒さは変わることなく、甲斐甲斐しく面倒を見てくれる婆さまに対していつも怒鳴り散らして困らせてばかりいたのだという。
その光景を見るに見かねた美津は、毎日のようにコッソリとお地蔵様の所へ詣でては「どうか、婆さまを楽にしてやってください」と心のなかで祈りをささげる毎日であった。
その後、看病のかいもなく爺さまが息を引き取ると、婆さまはたいそう嘆き悲しんで、また長い間の看病疲れと心労もたたったのか、今度は婆さまが病の床に臥す番となってしまったのである。
それでも美津は、「婆さまを楽にしてやってくれ」と日々拝み続けたが、その後ほどなくして、婆さまも静かに息を引き取ったのである。
その死に顔は実に安らかで、まるで眠っている赤子の寝顔のようであったという。
この話が村中に伝わると、疲れていた婆さまの最後くらいは楽に死なせてやろうというお地蔵様のご利益であるという話が村中に広がり、その頃からこのお地蔵さまは「ポックリ地蔵」と呼ばれるようになり、不治の病に苦しむ人々やその家族が、せめて最後くらいは苦しまず、安らかにお別れが出来ますようにとの願いを込めて、今なお日々お参りに訪れるのだという。
地蔵菩薩は、多くの亡者が死後の旅路に迷わぬように導く菩薩であるとして大きな信仰を集めたが、時代が平成から令和になった今もなお医学の進歩は完ぺきではなく、病床で苦しむ多くの人たちがおり、この地蔵尊に一心にすがる家族たちの願いは絶えることもないのであろう。
いま、この地蔵堂の中に物言わず座り続けるお地蔵様に向き合う時、その脇の千羽鶴は吹き込む風にカサカサと哀しげな音を立て、まるで病に苦しみながら亡くなっていった多くの人々の泣き声を聞いているかのようであり、ここにも人々の死に対する切実な願いと悲哀がそくそくと思い出されてくるのである。