地下鉄の北新横浜駅を降りて西口へ出て、新羽小学校や新羽中学校の建つ丘へ向かって歩いて行くと、いかにも旧道然とした曲がりくねった道に出る。
小さな道祖神の背後にはコインパーキングや月極駐車場があるのだが、そのさらに背後のこんもりとした塚が、地元で「おいづか」と呼ばれ、今なお大切にされている塚なのである。
地域史料「港北百話」では、この「おいづか」は伝承として取り上げられている。
鎌倉時代のこと、この「おいづか」地主である小山家が新羽の百姓たちの頭であったが、鶴見川の洪水で米が全く取れない時があった。そのため年貢米の上納が滞り、その責めを負って小山家の先祖は切腹し、他の百姓も後を追って自害したので、ここに亡骸を葬っては塚を作ったということである。
しかし、地域史料「新羽史」では地主の小山家本家が上記の説を明確に否定しており、どうやら小山家の先祖、小山大炊之助の墓であるという。
小山家の伝承では、大炊之助の主君がなくなったために大炊之助は後を追って自害し果てたので、塚を作りねんごろに葬った。後を追ったので「おいづか」というのだという。
小山家には弘化四年(1847年)に書き改められたという家系図があるとされ、それには「大炊之助は、この新羽地区で活躍した守護職横治監物の家臣であり、当村城主の家臣であり」との記載があるとされ、この件については「港北区史」でも取り上げられているのである。(港北区史 第三編 地区のあゆみ、第六章 新羽・新吉田・高田地区、第一節 小山家系図・横治監物横地監物)
その後、江戸時代には塚の上に神明社が祀られたために、「神明塚」とも呼ばれて大切にされてきた。
その昔、昭和の半ば頃までは田んぼと畑が中心だった新羽も、昭和の終わりには町工場が立ち並ぶ工業地帯となり、地下鉄が開通してからはマンションが数多く立ち並び、昔の名残を思い起こすものはほとんど失われてしまったのだが、山間にわずかに残る畑と、路傍の庚申塔がかつての新羽の暮らしを今に伝えているようである。
この地域に伝わる「おいづか」の話は、地元の新羽小学校でも教えていないであろうか。
実はみうけんは、かつて新羽に住んでいたことがあり小学校も新羽小学校の出身であるが「おいづか」の事を知ったのはずっと後になってからの事であるし、クラスメートの間でも地域史研究の授業でも「おいづか」が話題に上った事はなかった。
それでも、人々から忘れ去られまいとするかのように今日も塚は聳えつづけ、道向かいの真新しいマンションも、「おいづか」の名前を冠しては、その痕跡を今に伝えているのである。
平成も終わりに近づいたいま、この訪れる人もまばらな塚の前に立つとき、かつての主君の死を嘆き悲しみ、自ら殉じて命を捨てた忠義の士がそくそくと思い起こされ、その勲しや言葉に表しがたく、ただただ尊敬の念からの合掌をせずにはおれないのである。