JR根岸線は港南台駅を降りて北東に進むと、ほどなくして東宮山安養寺という高野山真言宗の古刹がある。
安養寺の開創年及び開山・開基は明らかにはなっていないのであるが、鎌倉時代には大伽藍を完備しており、大永元年(1520年、戦国時代初期)の火災により堂宇などが全焼し、大永二年(1522年)に時の住僧、光順法印が再興を遂げたと公式サイトに紹介されている歴史のあるお寺である。
そのほど近いところに四ツ切公園があり、その脇にある墓地も安養寺の管理となっている。
この墓地自体はどこにでもあるような共同の民間墓地なのであるが、その四ツ切公園に面した道路沿いには庚申塔や馬頭観世音をはじめとした石仏が今なお人々の暮らしを無言で見守り続けているのである。
馬頭観世音の成立には諸説ある。
梵名のハヤグリーヴァは「馬の首」の意であるとされ、ヒンドゥー教では最高神ヴィシュヌの異名でもある。
馬頭観音は一般的に「馬頭観音菩薩」「馬頭観世音菩薩」「馬頭明王」「大持力明王」など、いろいろな名前で呼ばれ親しまれてきた。
もともとは衆生の無智と煩悩からくる罪業を退ける菩薩であるとされていた。
馬頭観音像というのはただの石柱に文字だけを掘った簡素なものが多く、実写的な造形であっても多くの観音菩薩というのは細い体に柔和な顔つき、まるで女性でもあるかのような造形であるのに対して、馬頭観音は眼光も鋭く、髪は炎のように逆立って牙をむき出した憤怒相をしていることがほとんどである。
だが、こちらの庚申塔の脇にある馬頭観世音は表情は穏やかで頭上には馬の顔があり、髪の毛は優美に流れてひときわ珍しいお優しい様相なのである。
馬頭観世音は現生に生きる衆生の罪業を滅する、その一方で「馬頭」という名称から、馬を守護すると民間では信仰され、馬が死んだ場合には供養のために馬頭観世音の石仏を建立するということが盛んに行われたが、それらのほとんどは石に名前を彫りこんだだけの簡素な馬頭観音であり、強いて言うならば馬の墓標という見方も出来るのであろう。
その反面で、この馬頭観音のように緻密で優美な彫刻が施されたものもあり、その見事さは目をみはるばかりであるし、この流れるような髪の流れは特筆に値すべきものである。
時代も戦国から江戸へと移ると、国内の流通が活発化して馬や牛が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。
そうすると、自然と路傍で死んでしまう牛馬もあらわれるようになり、その路傍に馬頭観音が多く祀られていき、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていったという。
また、その近くには文字部分が削り取られたか、それとも自然に剥落したか分からぬ、石仏とも墓標とも石碑とも分からぬものが一体残されているが、一番下に「霊位」とあるから墓石であろうか。
現在では四十九日の法要を過ぎれば「霊位」という称号はあまりつけないが、戒名をもらえないような立場の人、あるいは宗派によっては「霊位」という称号をつけることもあるという。
これはおそらく・・・あくまでもおそらくであるが、その造形からして墓石であろうとは思うのだが、このような小さなものにも台座には見るからに緻密で立派な飾り文様が施されており、当時の石工の技術の高さが垣間見てとれるのである。
このような優美な造形と彫刻を誇る作例は数多く、他にも立派な地蔵尊が残されているが、これは両脇に「○○信女」と彫られており、これは生前に仏門に入り受戒して修行をしていた在家信者の女性に多く授けられた戒名であるから、これも現代でいう墓標なのであろう。
このように、この小さな墓地の片隅に残る石仏からは、牛馬を供養する馬頭観世音にも、人間を送り出す地蔵菩薩にも、それぞれ見事で丁寧な彫刻を施されており、その造形美たるや実に筆舌に尽くし難い。
生前に愛した馬や牛を、または家族たちを、死後の世に安らかなれと念じながら手にノミを持ち石を穿った石工たちと、それらを建立した施主のはかない思いが何百年とたった今でも鮮明によみがえるようである。