みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのJog・CE50。時速30キロで見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

雨水の穿ちが徳本上人の高徳をあらわす専念寺の揮毫石塔(横浜市港北区)

横浜市営地下鉄北新横浜駅から、地図で新羽小学校を目指していくと、新羽小学校が立つ小高い丘のふもとに浄土宗の古刹である亀甲山専念寺があり、これこそが戦国時代末期の慶長6年(1601)に耕公上人が開山したとされる由緒ある古刹である。 

 

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亀甲山というのは、かつて近くにあったこんもりと小高い丘が亀の甲のように見えるから付けられた名前である。

 

専念寺も、もともとはこの亀甲山にあったが後に今の位置に移転したとされており、この亀甲山は大田道灌が小机城と対峙するための本陣を置いたところとしても有名な場所である。

 

昭和の終わりごろまでは、この亀甲山にあやかって亀甲橋には亀の甲羅の形をした彫刻が飾られていたりもしたのだが、現在は開発により山は削られ化粧品会社の研究所を経て老人ホームとなり、亀甲橋も架け替えられて近代的で風情のない橋になってしまい、往時の面影をすっかりなくしてしまっている。

 

話を戻し、ここ専念寺のゆったりと広がるように作られる本堂の瓦屋根は見るからに優美で、昭和の終わりごろまでには裏山に咲き誇るボケ園が有名であったが今となってはすべて伐採されたのか、その香りを楽しむこともできなくなり、ボケ園の栄華は遠い過去の話のようである。


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この専念寺は、旧小机領三十三観音霊場の第16番札所でもあり、毎回子歳の御開帳ではその観音力とご利益にあやかろうと多くの人々が参詣し、平成から令和に移ろうという現代でもその賑わいはたいへんなものであるが、それだけにとどまらずに歴史ある庚申塔や忠魂碑が境内には並びたち、まるで開山から今までの歴史を垣間見るようである。


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このように境内の本堂や石塔群に目が行きがちな専念寺であるが、入口の脇には一基の苔むした石塔が立っており、これこそが廻国行者として名高い徳本上人の揮毫石塔なのである。

 

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徳本上人は江戸時代に庶民に信仰を広めるため、わずかな布施をたよりに全国を行脚し、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることにより人々は救われると説いた。

 

その高徳と人気はとどまるところを知らず、帰依した信者が望めば「南無阿弥陀仏」の名号を書いて与え、または供養塔を建てて、念仏の布教に生涯を捧げたとされている。

 

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和歌山県日高町公式サイトより)

 

ここ新羽の専念寺にも徳本上人揮毫の「南無阿弥陀仏」の石塔が建つ。

独特で個性的な筆使いはもとより、一番下に「徳本」と書かれているので実に分かりやすい。


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徳本上人は今でいう和歌山県に生まれた。4歳にして兄を亡くし、世の無常を嘆いて9歳で出家を志したというから驚きである。

しかし親の反対にあい、実際に出家を果たしたのは27歳になってからであった。

 

徳本上人は京都で法然上人の旧蹟を参拝すると、諸国を旅しながら南無阿弥陀仏を唱え、布教に尽力した。そこで浅草の増上寺の大僧正が徳本上人への関東招聘を願っていたので徳本上人は感激して応じ、関東へと旅立った。

 

この石塔の脇には文政六年(1823年)の年号があり、それだけで単純計算をすれば徳本上人が亡くなって5年後のことである。


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徳本上人は全国を巡るうち、文化11年(1814年)、摂津から京都を通り、桑名、島田、箱根、鎌倉と歩を進めて神奈川の宿を通り、江戸は小石川の伝通院に宿泊されたとされている。

 

徳本上人には全国の大名、庶民、果ては大奥の女中までが熱狂的に帰依し、徳本上人じたいも積極的に諸国を巡っては仏道を説き、カネを木魚を激しく打ち鳴らす徳本念仏というものを行って、数多くの信者に仏道を説いた。

 

また、鎌倉から三浦半島へも立ち寄り、三浦半島の各所で布教の旅を続けられたのだそうだが、その道すがらで、ここ新羽にも立ち寄っては村人を集め、念仏を唱えることの功徳と仏の教えに時を尽くされたことであろうか。

 

それとも、徳本上人の高徳に少しでもあやかりたいと思った村人が、徳本上人の揮毫をどのようにしてか入手し、決して朽ちぬようにと石工を雇い石に刻ませたのであろうか。

 

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その石塔の台座には、おそらく石塔に屋根があったことを物語る雨だれが穿った穴が大きく開き、その歴史の深さを物語っているのである。


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文政六年(1823年)にこの石塔が築かれてから、今年(平成31年・令和元年・2019年)で196年。

実に200年近くにわたり、この石塔は庶民の生活を見守り続けてきたのだ。

 

今は屋根は失われ、その穴をこれ以上深くする事はないであろうが、雨だれが一滴、また一滴と滴り落ちてはこの台座を穿って行くとき、その数だけ村人の悲しみや業苦をも流し清めていったかのようで、民衆から愛された徳本上人の法力が今でも人々を癒しているようにも感じられて、一抹の感慨を誘うのである。