みうけんのヨコハマ原付紀行

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戦乱の波に消えた哀れなる美しき姫君の伝説(愛川町)

神奈川県の中央を貫く相模川を北上して相模原市愛川町の境に入ると、鯉のぼりの名所としても名高い高田橋があり、その橋から愛川町側に坂を登ると小沢城址という小さな山城の址にたどり着く。

 

 

この小沢城は、中津原台地より東北に突出した部分に室町時代初期に築かれたとされる山城である。

城域は5700平方メートルほどの広さで城主は金子掃部助。山之内上杉家の配下である長尾景仲の家臣団の一翼である。

 

今となってはすっかり新しく切り開かれた県道63号線から城坂という坂を登るのが本来の大手口と言われているところで、つづら折りとなった急な坂はいかにも攻めにくく守りやすい中世の山城の雰囲気を今に残し、ここで幾度もの激しい戦闘が行われては名もなき多くの武将や雑兵たちが命を落としたであろうことは想像に難くない。


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その城坂の路傍には、すっかり古びて苔むした数体の地蔵尊が悲しげに立っている。この地蔵尊自体はずっと後の江戸時代のものでありながら、まるで戦乱の悲しみをいまにも伝えているかのようである。


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この山城も文明9年(1477年)の冬の日、対立する扇ガ谷上杉氏の太田道灌により攻撃され、3か月ほどの籠城戦を戦ったものの同年4月には落城させられたとされる。

 

かつてはここに多くの旗指物が並び立ち、数えきれない武者の鬨の声や馬のいななきが聞こえたことであろうが、今では城跡は切り開かれて畑となり、誰かに言われなければ城郭とは思えないほどの変貌ぶりである。


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また、本丸跡と伝えられる畑地の周囲は城郭らしく切り立った崖となっており、その先は空堀や堀切でもあったのであろう。畑地の隅には当時の物と思われる土塁の残存が僅かに確認でき、かろうじて往時を偲ばせているのである。


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 今となっては何もないただの小山と化してしまったかのような小沢城であるが、この小沢城には聞くも悲しき美しい姫君の伝説が残されている。

 

文明年間、扇ケ谷上杉家と山内上杉家の戦乱に巻き込まれた小沢城は、攻城の名人と名声の高い太田道灌の軍勢に攻め寄せられ、城主金子掃部助率いる城兵の奮戦もむなしく落城する。

 

この時、掃部助には一人の美しい姫があった。

この姫はすっかり年頃で、嫁として嫁ぐ先も決まり婚姻の宴に着るための晴れ着も仕立て、この戦さえなければ華やかなる婚礼を待つばかりの日々であったという。

 

しかし運命とは実に無情なもので、小沢城は戦乱のなか落城し一族郎党は打ち首、辛うじて生き延びたものは落ち延びた先での度重なる落ち武者狩りに遭い、ことごとく命を落としていく有様であった。

 

せめてこの姫だけは逃して生きながらえてくれよという城主や家臣の望みを胸に、姫は数名の侍女と共に落ち延びていくが、思いもかけぬ厳しい逃避行のすえ、小沢城から1キロほど離れた場所で力尽きてしまう。

 

姫は我が身の運命を嘆き悲しみ、せめて婚礼のためにこしらえた晴れ着を着て死出の旅に赴こうと決意を固めるや、追っ手が迫るのも厭わず装いを整えて一世一代の晴れ姿となり、焼け落ちていく小沢城を眺め城兵たちの阿鼻叫喚を聴きながら、許婚がいるであろう空の彼方に目をやると、渾身の力をもって

「この世で結べぬ契り、せめてあの世で成就させてくれん」

と叫ぶが早いか、濁流の中に身を踊らせたのである。

 

すると、それまで晴れていた空がにわかに曇り、たちまち風が吹き出しては稲妻を鳴らす大嵐となり、美しかった姫の亡霊は見るも恐ろしい龍神へと姿を変え、見上げるような身をうねらせると川底深く消えて去ったのだという。

 

その呪いは今も忘れずに語り継がれ、近くの城坂の道を花嫁が通ると必ず不幸が訪れると信じられ、この坂を若い嫁や嫁入り前の娘が通ることは厳に慎まれていたという。

 

その後、この美しい姫の最後を哀れんだ村の人々により、姫が身を踊らせたとされる場所には一本の松が植えられ、現代には記念碑も建てられ、その哀話を今に伝えているのである。


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文面には「今から八百余年の昔愛川町小沢は武蔵七党の横山氏の支族小沢太郎が居城したところで建保元年五月和田義盛が幕府に抵抗した時に横山氏は縁戚の和田方に味方したので小沢氏もこれに組みしたこのため幕府軍によって城は落城され滅亡したこの時松姫は一人の侍女を共に城を逃れこの縁まできたが観念して入水散華した」と記載して昭和45年5月に由来碑が建立されているが、これは川崎市多摩区にある小沢城と混同したものであろうか。


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当時あったとされる沼は無くなり一本の小さな小川が流れるのみで、最初に植えられた松も枯れて今は小さな松に植えかえられてはいるが、ただ一面に広がる静寂のみが往時の風景をとどめている。


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この松は「姫の松」と呼ばれ、近隣で大切に守られてはいるものの、訪れる人もあまりなく殊に時の流れ早き現代となっては次第に忘却の彼方へと流れて行くかのようである。


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いま、姫の松の根元で静寂と風の音に耳を傾け、詣でる人も少ない路傍の地蔵菩薩の前に立ち拝むとき、戦国大名たちの争いに巻き込まれた小さく名も無き城と、なんの罪も持たずして追い詰められ、自ら命を絶った美しき花嫁の姿を思い浮かべ、戦乱というものの無情さと人生のはかなさというものがそくそくと思い出されて来るのである。