みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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奈良からの逃避行 お面姿の中将姫伝説(藤沢市)

JRの門沢橋駅小田急長後駅の中間のあたり、目久尻川の流れる用田の里は交通の便も決して良いとは言えない静かなところである。

それでものどかな中に一定数の住宅が軒を並べて、首都圏のベッドタウンたる神奈川県の独特の雰囲気を醸しているのも、また事実である。


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そんな用田の里を網の目のように広がる細い路地を原付でゆっくりと駆け抜けて、途中途中でグーグルマップを確認しながら進んできたのが、ここの行き止まりである。

舗装路の先は農道のようになっており、ここから先は原付で進むのをためらわれるところであるが、左下のほうに小さく「中将姫」という文字が写りこんでいることにお気づきであろうか。


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農道に入ったところ、茂みの中の邪魔にならなさそうな一角に原付を置いて、ここからはずっと歩いていく。

これといった道しるべもない寂しいところであるが、比較的しっかりとした道ができているので歩きやすいところである。


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角を折れて茂みの中を分け入るように入っていくと、粗末な階段に続くのでゆっくりと降りていく。すると、途中から真紅の真新しい幟旗が並んでいるのが見えてくるが、ここにはしっかりと「中将姫」と染め抜かれているのを見ることができる。

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そのわきにある立派な祠は、これこそが伝説の才女「中将姫」(ちゅうじょうひめ)の祠であるとされ、この少し前にも誰かがお参りをしたようで、真新しい香華が手向けられはかない煙が草いきれの中に吸い込まれてゆくそのさまは、静寂を際立たせてより一層哀れであった。


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伝説の才女「中将姫」(ちゅうじょうひめ)とは、奈良時代の最盛期にあたる天平19年8月18日(現代歴747年9月30日)~宝亀6年3月14日(現代歴775年4月22日)に存命したという女性である。

奈良の当麻寺に伝わる「当麻曼荼羅」を織ったとされる女性であるが、あくまでも史実的な裏付けに乏しく伝説上の人物とされている。


 

中将姫は、藤原鎌足の曾孫であった藤原豊成と、妻の紫の前の間に生まれた娘であり、中将姫が5歳の頃に母親は病で亡くなっているとされる。

世間でも評判の美貌と才覚に恵まれた中将姫は、わずか9歳の時に孝謙天皇に召し出されて、百官の前で琴を演奏したとされる。

しかし、その美貌と才覚が妬まれたのか、継母であった照夜の前からはひどく疎まれ、盗みの疑いをかけられたり虐待を受けることがしばしばあったという。

 

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中将姫14歳の頃、父親であった豊成が諸国を巡る旅に出るや否や、照夜の前は中将姫殺害を企てるものの、一切の申し開きも命乞いもせずに、亡き母の供養を決して怠ることなく、ただ信心のままに読経三昧を続ける中将姫に手をかけることは容易ではなく、その罪状すらないばかりか家臣からも慕われていた中将姫は命を永らえ、能に有名な雲雀山の青蓮寺へと身を隠したのである。

 

翌年、豊成が自邸へ連れ帰ったが中将姫の信心は衰えることなく、淳仁天皇後宮への誘いも断って当麻寺の尼となり、名を法如と改めて仏道に生涯をささげたと言われており、中将姫は尼に姿を変えた阿弥陀如来観音菩薩の助けを得て、一夜で「当麻曼荼羅」と云われる「観無量寿経」の曼荼羅を織ったという伝説が残されている。

 

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このように神秘の中に行き、数数の伝承を生みながら若くして極楽浄土へとのぼっった中将姫は後世の創作の題材としても大きな人気があり、数数の能楽文楽、歌舞伎となって現代でも高い人気を博しているのである。

 

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この中将姫の祠がどのようにしてこの地に有るのかは、ほこらの脇に建てられた案内板によれば、「その美貌と秀でた才能から継母に嫉まれ、命を狙われ、お面で顔を隠す逃亡生活であった。その面は寿昌寺に預けられた後、用田の寒川神社へ納められたが盗難に遭い現存していない」とある。

 

さらに詳しく調べてみると、この辺りは用田の中でも中条という字を持ち、中将姫が逃避行の折にここに居を構えた伝承が残り、今でも中将姫の命日と伝えられる3月14日には、中将姫の霊を慰める祭礼が執り行われているのだという。

 

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また、蛇足であるが「新編相模風土記稿」の伝えるところでは、愛川町の八菅山(はすげさん)と伊勢原市日向薬師秦野市の落幡(おちはた)について中将姫の伝説がある。

 

「その昔、大きくて立派な幡旗を中将姫が折り上げたが、それが津久井の方から飛んできて、八菅の北の坂(幡の坂)へ落ちた。

その後、更に舞い上がって雲台院(字宮村。「幡」という地名が残る)の庭に落ちた。

八菅山の修験行者たちが集まって祈ると、幡旗はまたもや空へ舞い、鶴巻に落ちたが、そこには「落幡」という地名がついた。

それはあまりにも立派な幡なので、村人たちによって日向薬師に寄進された」と記載されている。

 

これらの逸話がどのあたりまで史実に沿ったものかは全く以って不明であるが、少なくとも江戸期にはこのような言い伝えが生まれ、祠も生まれて現代に至るまで大切にされてきたようである。

 

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今、この人影も少ない寂しい森の中に一人立ち、中将姫の祠に香華を手向けて静かに手を合わせるとき、遠い奈良から命をかけ、面で顔を隠しながらの逃避行を続けた中将姫のが奈良の方角を見つめる後ろ姿が想像できるようで、ここにも歴史と民話の奥深さと悲しさを思い起こすのである。

 

 

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