相模線番田駅の西側に青々と広がる田名バーディゴルフ場の裏山には、河岸段丘の上に登っていく細い登り坂があり、これを法仙坊坂と読んでいる。
この坂を登り切ると畑が広がるところであるが、その手前の脇道に逸れると産業廃棄物処分場があり、その片隅には祠にしまわれた小さな石碑があるのを認められよう。
以前、ここには大樹が生い茂っていたようであるが今はなく、崩れかけた金属の板が今にも倒れてきそうで、往時の面影はない。
祠の中には、小さな石碑がうやうやしく祀られており、表面には「法仙坊大明神」と陰刻されているのが見てとれるが、この「法仙坊大明神」のある所から眺めると、崖の下には水田が開かれており、この水源は堀之内から流れていて田名ではもっとも古い田んぼであると言われている。
田んぼの向こうには陽原と望地の各部落を望み、それから相模川を隔てて愛甲郡相川と厚木の地となり、川の西岸には小沢城のあった三栗山が聳えているのである。
さていつの頃か、この丸山のあたりに法仙坊なるものが居住していた。
この男はすこぶる剛の者で、あまりの強さに周囲に敵なしといった感じで誰もが恐れおののくので、すっかりいい気になってやりたい放題の暴威を振るっていた。
その時、対岸の小沢城には小沢太郎というものがおり、たいへんな弓の名手で彼の右に出る者はなく、また剛力でもあったので、軽い力で矢を放ってもその名はこちらの田名まで届いたと評されている。その弓が落ちた所は、今でも飛び崎という地名が残されているという。
この小沢太郎が法仙坊の横暴のうわさを聞き、では懲らしめてやろうかと機会をうかがっていたが、ついに両者は一戦を交えることとなった。
小沢太郎があまりの怒りのもとに放った弓の勢いたるや凄まじく、飛び崎の遥か遠くまで飛ぶ勢いであった。
両者の勝敗の結果については言い伝えがないが、どちらも拠点に居座ったままの戦であったから決着は付かなかったのかもしれない。
この辺りには数多くの矢が落ちて矢向という地名を残したのもこの頃だと言われている。
また別の説によれば、たまたまこの地を通りかかった法仙坊という老僧に小沢太郎が放った矢が偶然当たり、仏に仕える僧に対してなんたる事を、と村人が小沢城に抗議にいき、深く反省した小沢太郎がこの地に法仙坊を祀ったとも言われている。
どちらの説が正しいのか、どちらも民話の域を出ないのかは今となっては知る由もないが、この法仙坊の石碑は、つい最近までは土地の者にたいへんに信仰され、特に大東亜戦争の頃には遠くから武運長久の祈願に来る兵士たちで大変な賑わいだったそうである。
現在ある法仙坊大明神も昭和16年に再建されたもので、やはり武運長久を祈る兵士とその家族(愛川町小沢に住む榎本氏)たちが発起人となって建立したと言い伝えられている。
昭和20年代までは、道の少し奥まったところに小社があったそうで、33平方メートルほどの敷地の中央に幅1.5メートル、奥行き2メートル位の社が建てられ、五輪塔と共に祀られていたそうだが、その五輪塔も今は笠の部分だけが法仙坊大明神の前に安置されて賽銭箱のようになっているのである。
いま、秋風吹き荒ぶ法仙坊の坂の上で、法仙坊大明神が見つめる方角に小沢城の山並みを認めるとき、遠い昔にここまで飛んできた矢がいま再び放たれるような錯覚に陥るのである。