横浜市を南北に周回する環状2号線は横浜市の物流を支える大動脈である。
その環状2号線にかかる、その名も「環2般若寺」という交差点の近くにあるのが、高野山真言宗寺院の無量山般若寺というは、文亀3年(1503)創建の古刹である。
この般若寺の辿ってきた歴史は決して平穏と言えるものではなかった。
般若寺
無量山ト号ス
とのみ紹介されており、その詳しい開山の経緯などは何も言及されておらず、みうけんの蔵書「港南の歴史」をひもといてみると、文亀3年(1503)3月18日に大法師秀尊により創建され、寛文元年(1661)10月23日没の大法印真隆により中興されたとある。
この般若寺は、幾度も大火に見舞われては堂宇や什宝、古記録類などをことごとく焼失したために檀家は次第に離散した。
一時期は檀家が4軒にまで減り無住にまでなってしまったが、その4軒の檀家の一致団結によって兼務寺であった大仙寺、香象院、安楽寺を動かし、昭和14年に鈴木秀成氏が住職として晋山するに至ったのだという。
その時に受け継いだものは過去帳くらいのもので、仏像、仏具など寺としてあるべきものは全て法事の都度、兼務寺から借り受けてきた有様だったという。
この般若寺は、環状2号線の中でも主要な交差点名に使われている事もあり、いかに大きなお寺であろうかと思っていたが実際は住宅地の中にひっそりと佇む小さな檀家寺であり、よく見ないと一般の家と見紛うようなたたずまいであるが、今もなお語り継がれる「乳出の井戸」の伝説を今に伝えているのである。
かつて、暮らしていくという事はそれ自体が重労働であった。
どこに行くにもひたすら歩き、今のように電気もガスも無かった頃である。毎日の飯炊きは、まず山での焚き木拾いから始まる時代であった。
当然、今のように粉ミルクを哺乳瓶に入れて赤子に飲ませる事も出来ないので、母から母乳が出なければ、それは赤子の命の危機にも直結したのである。
そんな時代のある日、下永谷の村に乳が出なくて困っている嫁がいた。
何しろ貧しいので食べるものも貧相なもので、朝から晩まで休まず働かなければ生きていけなかったので、仕方のない事でもあった。
嫁は、いくら吸っても出ない乳と、あまりのひもじさに日々に弱っていく我が子を抱きしめながら、日々涙するしかなかったのである。
そんなある日、その嫁の話を聞いた村の老女が嫁の家にやってきて、般若寺へ行けという。
話を聞けば、その老女もかつては貧しく、乳が出ない事に思い悩んだ一人であったが、般若寺の井戸水で粥を炊いて食べた事で乳の出がよくなり、子供を丈夫に育て上げる事ができたのだという。
そんな話を聞いた嫁はさっそく般若寺へ出かけていき、般若寺の井戸水を汲んできてお粥を炊いて食べた。すると、不思議な事に乳房が丸々と張ってきてはちきれんばかりになり、赤子が気が済むまで、不自由なく乳をやる事ができたのである。
そればかりか、その乳を飲んだ赤子は病気一つする事もなく丈夫に育ち、心根も優しく育った。
あまりの事に感謝の気持ちを抑えきれなかった嫁はお礼のお参りを日夜欠かす事もなく、ほかにも乳が出なくて困っている母親がいれば、般若寺の井戸を教えてやったのだという。
それから、噂が噂を呼んで、般若寺の井戸はいつしか「乳出の井戸」と呼ばれるようになり、遠くは江戸や小田原からも水をもらいに来る女性たちが絶えることはなく、境内はいつも子連れの女性たちでにぎわっていたのだという。
今では、栄養事情もよくなってそのような女性たちも減り、さらに粉ミルクの普及によって乳出の井戸はすっかり忘れ去られて、境内にわずかに「弘法大師おめぐみの水」というものが残されているだけであり、これが乳出の井戸であるかどうかは知る由もない。
いま、落日の境内にひとり立ち、落ち葉を踏みしめて境内の大木を見上げるとき、かつてこの小さなお寺の境内にたくさん集まった女性たちのことを思うと、神仏にすがるしか生きのびる法を見出すことができなかった昔のことがにわかに思い出されてくるようである。