京急線の終点、三崎口駅から西の果てに向かうとそこは三戸の集落である。
相模灘の奥に遠く富士山を仰ぎ見る三戸海岸と、うっそうとした木々の中に細い道が入り組んで残る昔ながらの町並みが広がっており、このような狭い道こそが原付の力の見せ所である。
海岸沿いの道を1本奥に入ると、上記のような昼なお薄暗い道が続いており、その奥には浄土宗の寺である海養山地蔵院 霊川寺(れいせんじ)が木々に隠れるようにしてひっそりと建っているのを見つけることができるのである。
海養院というのが、また海に抱かれた三浦らしい。
海を「養う」のか、それとも海に「養われる」のか。その真意はどちらにあるにしても、海と共に生きてきた漁師の街らしい、実に風流な物言いではないか。
この寺は他の寺に比べて決して広くはなく、本堂も正面から写真も撮れないほどである。
この寺の開山は古く元和年間(1615年~1624年)とされており、このころは戦国時代の傷も癒えぬ江戸時代の始まりのころであり、連年の凶作が続いては村人は食べる者すらなく、次から次へと餓死者が出てしまう有様であったといわれている。
この光景に心を痛めた澤村吉左衛門という村人が運心大徳(寛永2年・1625年没)の弟子となり、餓死した村人の冥福を祈るため、この地に小さな堂宇を建立したのが始まりであるとされている。
当初は地蔵菩薩が本尊であり、そのため地蔵院という名であったが今では阿弥陀如来を本尊としているのであるという。
その霊川寺の隅には小さな地蔵堂が建てられており、その中には一体の地蔵尊が祀られているのが見てとれるが、これはこの地域では有名ないぼとり地蔵(別記事で紹介)である。
また、寺の門前には今にも草に埋もれていきそうな石仏たちがひっそりと立ち、まさに数百年にわたって人々の祈りの地となってきたのであろう。
門前にも一基の庚申塔が経っているが、この庚申塔は張りだした塔頂部と日月の紋章を入れた典型的な庚申塔でありながら、下の方にわずかに三猿と思われる痕跡を残すのみで、その表面はすっかり削り取られてしまっているのである。
日月の月などは長い間の潮風に削られて自然と丸みを帯びたのであろうが、この明らかに人為的に削り取られたであろう庚申塔も、明治の初期に全国に吹き荒れた廃仏毀釈の被害者であろうか。
今まで数多くの石仏を見てきたが、その中には真っ二つに割られてしまったものや首を落とされたものも少なくなく、このように全体を削られてしまった例も決して珍しくはない。
しかし、今なおこうして大切にお祀りされているのを見る時、昔の人々の一時の廃仏毀釈にさらされながらも、絶えることなく蘇った信仰の心が垣間見える様であり、他の石仏よりもより一層大切にお祀りされているのを見る時、みうけんの勝手な推測ではあるが石仏を削り取った人たちの、後年の贖罪の想いがひしひしと伝わってくるかのようである。