戦時中は東京湾要塞といい、東京湾と帝都東京を防衛する要として要塞地帯となった三浦半島の観音崎も、現在となっては風光明媚な風景を楽しめる遊歩道が整備された公園となり、平日だというにもかかわらず多くの人が散策を楽しむ平和なところである。
以前、「観音崎の名の由来となった観音寺の記憶をたどる(横須賀市)」でも紹介したが、この観音崎の遊歩道を歩いて行った海沿いにはかつて海上安全に霊験あらたかとの信仰を受けた観音寺と呼ばれる寺院があったという。
この寺院は漁業や海運を営む者、またその家族らから特に人気があり、多くの人が連日連夜にわたって舟を横付けしては参詣に訪れ、その門前の磯にはお茶屋と呼ばれた料理屋までもが立ち並び、日々の宴会で大変な賑わいであったという。
今でもこの磯を歩くと、磯に穴を穿っては柱を挿していた痕跡が数多く残され、もし建築などに詳しい人が見れば、この規則正しく並んだ穴の配列により建物の間取りなどがいくばくか想像できるのやも知れない。
また、よく見ると海水を入れて魚を生かしていたイケスの跡も残され、ここにも規則正しく穿たれた柱穴と階段があるのが見てとれ、往時の営みを今に伝えているのである。
このイケスは大正13年の関東大震災で隆起したことにより今では海水は入らなくなってしまったが、かつては常に海水が出入りする潮だまりとなり、この中に自然と入った小魚などを取ることも出来たのだという。
ここにあった観音寺もお茶屋も、明治13年に観音崎一帯が軍用地となったことにより失われ、今では穴が並ぶ磯に波が寄せては返す、どこにでもあるような磯の光景のみが広がっている。
しかし、この地が軍用地になるまでの間、地元の走水や鴨居から、遠くは浦賀の漁師たちも三々五々にこの地に集まり、舟に乗り櫓をこいで出かけて来ては遊びに興じたという事で、ここにもかつてこの地に生きた人たちの息遣いが確かに感じられるようで、時の流れの早さを深く感じるのである。