綾瀬市の県立綾瀬高校の裏手に、とても立派なお寺があります。
曹洞宗寺院、陽廣山 報恩寺で、江戸時代初期の慶長7年(1602年)開山という歴史の古いお寺です。
このお寺は観音様に対する愛情がとても深いのでしょう。
あちらこちらに観音様を讃える姿勢が見えてきます。秀麗な本堂の前に建つ回向柱にも、観音様を讃える延命十句観音経が書かれていたのが実に印象的でした。
この報恩寺の境内には、数多くの観音像が祀られています。
その中で特に気になったのが、こちらの「平和」観音でした。昭和15年(1940年)は日本独自の暦である「皇紀」2600年の節目に当たる年で、日本各地で盛大に祝われてあちこちに記念碑が建てられました。
この観音像も横には「皇紀二千六百年」と陰刻されています。
台座をよく見ると、「平和観音」の「平和」の部分だけが大きく凹んでいるのが分かります。
皇紀2600年にあたる昭和15年は、ちょうど支那事変(日中戦争)の真っ最中でした。
未だ大東亜戦争(太平洋戦争)こそ始まってはいないものの、日本中が戦争の勝利に向けて力を注ぎ、耐えがたきを耐え忍び難きを忍んでいた時です。
本来、殺生や争いを許さないはずの仏教界の仏像にさえ、「興亜観音」「戦勝観音」など軍事色が強い観音像が多く作られたと聞いています。
おそらく、この観音像もそうした「戦争を推し進めていく」観音像だったのでしょう。
もともと、この観音像の台座にどのような文字が刻まれていたか今では知る由もありませんが、反戦や平和を謳うものではなかったであろう事は容易に想像がつきます。
それが、後の終戦を機に、平和の観音像へと作り替えられたものかと思われます。
詳しくは別記事でも紹介しますが、このお寺には「おたすけ観音」という観音さまもいらっしゃいます。
このお寺のご住職、27世の太嶽洞源(たいがくとうげん)和尚が軍隊へ徴兵されて台湾へ出征された際、多くの戦友が敵の銃弾に斃れていく中で太嶽洞源和尚は観音様のご加護を受けて無事に帰還出来た事に感激されて「おたすけ観音」を建立されたという事ですが、弾除け観音としての性格も強かったことから国策に反するとして軍部から相当睨まれたというお話があります。
同じような弾除け観音、弾除け地蔵というものは全国に造像例があります。
身近な所では横須賀の観音寺の弾除け地蔵様でしょうか。こちらも観音様を祀ったお寺です。
また、日本全国でお寺の梵鐘や仏具が金属であったために供出され、戦車や銃弾へと姿を変えて戦地に赴いていったという話もあります。
あの大東亜戦争が正しかったのか、間違いであったのか、その答えは賛否両論あり未だに答えは出ていないように思います。
ただ、国策という名のもとに国民を癒す救うべきはずの仏教界までが戦争に動員され、その結果として多くの無辜の国民が犠牲となったことは事実だと思います。
いま、ここに多く居並ぶ観音様たちは、そのような時代の移り変わりをどのようなお気持ちで眺めてこられたのでしょう。
本当に観音様に観音妙智の力があり、苦しむ民衆をあまねく救って下さるのであれば、日本中で世界中で戦争のもとにもがき苦しんでいった方々を一人でも多く救って下さることを願ってやみません。