横須賀市は深浦湾の脇、榎戸というバス停がある。
この榎戸バス停から山側に行くとすぐに三叉路があるが、この三叉路を超えたところにうっかりすると通り過ぎてしまいそうな細い道がある。
この道は当然車では入れないようなところであるが、このような道でも原付であればグイグイ入っていけるのが強いところである。だがしかし、どこで歩行者に出くわすかも分からないから充分すぎるほどに注意をし、速度も徐行の徐行で慎重に運転せねばならない。
この旧道はやがて山頂へとつながっているのであるが、この旧道を登りきったところにヒガンバナが咲き乱れるひらけた所があり、この脇にひっそりと建つ「三浦廿二番坂中観音」の石塔の脇の階段を上ったところに、坂中山観音寺があるのである。
この寺の創建ははっきりしていないものの、貞享4年(1687年)という説があり、それが正しければ徳川5代将軍綱吉公のころである。開山は青蓮社布誉万碩上人(せいれんしゃふよばんせきしょうにん)と言われている。
この寺の本尊は室町時代に作られたという十一面観世音菩薩で、檜の一木造りであり、普段は菊と桐のご紋が入ったお厨子に納められているが、毎回丑年に半開帳を、午年に本開帳され多くの信者が詰めかけるのだという。
この観音像は、漁師町らしく「漁師が海中から拾い上げた」とされる三浦半島には多い「海中出現の観音像」であると言い伝えられているが、その中にもとりわけ不思議な伝説を今に伝えているのである。
江戸時代のこと、観音様を篤く信仰した江戸日本橋の豪商の隠居が、諸国を行脚して巡礼する道すがら、現在の宮崎県にあたる日向の国の山中で日が暮れてしまい、仕方なく崖の洞穴で一夜を過ごすこととした。
すると、日ごろから信仰している観音様が夢枕に立ち、
「お前は今すぐに『有縁(うえん=一般の衆生が仏の教えに出会えることができる場所のこと)の地』を目指すのです。そして、多くの衆生に仏の道を説いて教えなさい。特に難産で苦しむ多くの女人を救いなさい」と言い残したのである。
隠居は慌てて飛び起きると、不思議なことに枕元に一体の観音像が立っておられた。
これ以上の仏縁はないと豪商は観音像を大切に持ち帰り、海路浦賀水道をたどって江戸を目指したのである。
しかし、運悪く海は大しけとなり船は深浦湾に逗留することとなった。隠居はこの深浦こそが「有縁の地」に違いないとして小さな草庵を結んで観音様を祀り、多くの衆生に仏道と慈悲の心を説きながら、残りの生涯をこの地で過ごしたのだという。
また、本尊の観音菩薩像の脇には弘化年間(1845~1848年)にかけて奉納された阿弥陀如来像や、聖観音・十一面観音・不空羂索観音・千手観音・如意輪観音・准胝観音・馬頭観音の七観音像が並べられているのだという。
堂内には、浦郷八景という大絵馬が奉納されており、この山頂からの見晴しについて三浦古尋録には「・・・漢地の西湖も、かくやらんの勝景なり」と延べられて、この地からの風景美がいかに優れていたかを物語っているのである。
しかし、明治の初めから今日に至るまで、美しかった浦郷も横須賀も、海岸という海岸は埋め立てられ、山は切り開かれては軍用地や工場へと姿を変えていき、昭和3年の田浦町誌には「惜しいかな、帝国の国防のためとはいえ・・・科学文明は自然を破壊し、昔日の観少なきことを・・・」と嘆いているのである。
この寺は明治14年から明治21年にかけて、実に8年近くの間にわたって村立浦郷学校がおかれ、現在の浦郷や追浜の全域から山坂をこえ、風雨に負けずに子供たちが通った学び舎だったのでもある。
いま、この小さな寺の本堂の前で手をあわせ、これからの家庭円満を願うとき、遠くから大きなおなかを抱えて坂を上ってきた妊婦たちが眺めた海岸と、数多くの児童たちが本を片手に見下ろした風光明媚な村々が、近代的で隙間もなく建設された無機質な住宅街と港湾施設にとって代わったことを思い、ここにも時の流れのはかなさをしみじみと感じるのである。