天気もよく日差しも温かな初夏の日、椰子の葉が揺れるよこすか海岸通りで原付を走らせた。
全身に当たる海風は心地よく、交通量も少ない、この海岸沿いの道はみうけんのお気に入りスポットのひとつである。
やがて、馬堀海岸四丁目東の交差点を山側にそれ、山すそに建つ馬堀小学校のところまで行くと、左手に浄林寺という寺院が見え、さらにその先には鬱蒼とした山の中に入り込んでいく薄暗い階段が見えてくるのである。
この階段を上がっていくと、山の中腹の狭いところに木洩れ日が差し込んで穏やかな時間が流れ、その奥には小さなお堂が建てられているが、これこそが名馬「美女鹿毛」と「名馬池月」の伝説を今に伝える馬頭観音堂なのである。
時代はさかのぼって源平争乱のころである。
安房国峯岡(現在の千葉県鴨川市江見のあたり)の海蝕洞穴に、とても里人の手に負えぬ凶暴な馬が住みつき、日夜畑を荒らすので村人は困り果てていた。
この馬は「荒潮」と呼ばれていたが、ある日村人たちはこぞってこの馬を追放することを決め、手に手に武器や鍬、鎌を手にして追い回した。
いかに荒馬とて武器を携えた村人に追い掛け回されてはかなわない。
やがてこの馬は海中に逃れ、普段から遊泳していた腕の見せ所といわんばかりに、三浦半島の走水まで泳ぎきったのである。
さすがの荒馬であるが、東京湾横断はたやすい事ではなかったようで、走水に上陸してからは疲れとのどの渇きに耐えかねて倒れ、しばらくは息絶えるようにして眠ってしまった。
するとどこからともなく馬頭観音が現れ、その加持力により馬は息を吹き返すと、急にのどの渇きを覚えたので傍の岩を蹄(ひづめ)で蹴飛ばしたのである。
すると、たちまち岩が割れて冷たい清水が噴出したので馬はのどの渇きを癒し、気性の荒かった荒潮はこれ以降おとなしく柔和な性格の馬となって、見るも端麗な駿馬に生まれ変わったのだという。
その後、この美しい馬を見た里人は「美女鹿毛」(びじょかげ)と呼んで親しんでいたが、これが時の領主三浦義澄の耳に入り、義澄はこの馬を源頼朝に贈った。
源頼朝はこの馬を大変気に入り、「池月」と命名して日々愛情を注いでいたという。
時は流れて寿永3年(1184年)、宇治川の合戦が始まったときに源頼朝は佐々木四郎高綱にこの「池月」を与え、梶原源太郎景季には「磨墨」(するすみ)を与えて宇治川での先陣争いをさせた結果、池月が勝って名馬として不朽の名声を今に伝えているのである。
今、この地は名馬美女鹿毛が馬頭観音の霊力により井戸を掘ったことから馬堀という地名がつけられ、馬の掘った井戸は蹄の井戸という名で里人に親しまれ、800余年の月日を経ても今なお涸れることなく水をたたえ続けている。
その後、この水は百日咳に効くとして多くの信仰を集めて馬頭観音堂が建てられた。
現在の馬頭観音堂は、昭和34年に落慶したものが昭和60年に火災で焼失したことから、新しく立て替えられたもので、移り変わるときの流れの中に、ここにはるか遠き昔の伝説を今に伝えているのである。