JR相模線の入谷駅の近辺は、首都圏の駅前とは思えないのどかな農村地帯であるが、入谷駅から南側の鳩川という小川にそそぐ用水路をまたぐ踏切を目印に、原付を走らせていく。
このあたりは農業指定地区となり、周囲は田んぼばかりが広がって聞こえるのはカエルの声と用水路のせせらぎばかりであり、遠く西側には大山丹沢国定公園と富士山を望む手前には相模線の単線が貫いて、よりいっそうの望郷感をかもし出しているのである。
そんなのどかな踏切には、すぐわきに車が何台か止められるようなスペースが確保されているが、その脇には比較的新しいお地蔵様がひっそりと立っており、これこそが水害を防ぐために我が身を犠牲にして人柱となった「お松」の悲話を今に伝える地蔵尊なのである。
古来より土木工事の成功を願って若い娘を人身御供に建てる「人柱」の風習と伝説は各地に残されており、神奈川県でも横浜市の吉田新田開発に伴う「おさん」の人柱伝説と、横須賀市の人柱伝説が有名であろう。
むかし、昭和期に上流に相模湖などの人造湖とダムが造成されるまで、相模川はやれ大雨だ、やれ台風だといってはたびたび氾濫を起こしていた。
長大な堤防もたびたび決壊しては流域を水没させて沼のようにしたり、家や人をも押し流し、命からがら生き残っても家財の全てを失った人は数えきれなかったという。
いまの海老名市上今泉には、その名も「崖の根下」という字があり、この一帯では荒れ狂う濁流に崖という崖を削られ、その麓にあった耕地の稲も根こそぎ流されてしまうことが度々であり、領民は大いに困窮していたという。
江戸の初期である寛文2年(1662年)、時の領主に久世大和守広之という人がいた。この領主は、もともと下総国関宿の藩主であった。
慶安9年(1648年)に武蔵国小机領(横浜市港北区)などと共に、海老名領のうち五千石を加増せられて一万石を拝領した大名であったが、領民が水害のたびに嘆き悲しみ、納める年貢もなく困窮しているのを見かねて大堤防の建設を志したのである。
しかし、思ったよりの難工事でなかなか進展せず、堤を築いては押し流され、また築いては押し流され・・・の繰り返しであった。
そこで誰からともなく、人柱を立てようという話になったのだが、人柱として神にささげるからには、若くて美しいことはもちろんのこと、男と交わったことのない生娘でなくてはならなかった。
結局、村で一番の美女とうたわれた「お松」が選ばれたが、そのような降ってわいた運命にお松はもちろんのこと家族も大いに困惑し、村のためとあっては断るのも難儀であり、どうすればよいか右往左往するばかりであった。
時は流れて何日もたち、さんざ泣いては床を涙で濡らしたお松と家族であったが、村人の涙ながらの懇願にようやく観念し、村の為になるならばと泣く泣く承諾したのであった。
ついに人柱となる日、お松は大きな棺に入れられ、大勢の村人たちが合掌して見送るなか、堤防沿いの大穴に埋められていった。
棺には青竹の節を抜いたものが差し込まれ、しばらくの間はカネの音が聞こえていたが、やがてそれも聞こえなくなると村人たちは合掌号泣してその場にひれ伏したのだという。
やがて、お松の心が通じたのか、それまで難工事だった部分はまたたくまに順調に終わり、見るも立派な堤防が出来上り、お松に感謝した村人たちは、お松を埋めたところに供養碑を建てて榎の木を植え、塚を築いてねんごろに弔ったのである。
いま、この場所には今でも「えのきど」という字が残って往時をしのばせているのである。
この供養碑は決して目立つことなく、用水路沿いの雑草に埋もれるようにひっそりと立っていた。碑は台座から計って60センチ余りの高さがあり、長い月日のうちにすっかり磨滅して地蔵菩薩のお姿も分からなくなり、わずかにその右側に「為念仏供養菩提也」と彫ってあるのが読み取れたという。
しかし、どの時代にも心無い輩はいるもので、いつしかこの地蔵は消えてしまったという。おそらく、何者かによって持ち去られたのであろうという。
このような紆余曲折を経て、地元の人々が一丸となって平成5年に新しい慰霊碑を建立し、いまなお地元の人々から崇敬を受けているさまを見ることができるのである。
名前こそは「お松地蔵尊」であるが、通常の地蔵尊の造形とは明らかに異なり、錫杖も宝珠も持たぬ手は体の前で静かに合わせられ、髪の毛なのか頭巾なのかは分からぬものが頭から背中まで垂らされており、その優しげでありながらどこか物悲しそうな表情は若くして非業の死を遂げたお松の姿を想像して彫刻されたものであろうか。
このお松地蔵の背後には、すっかりきれいに整備された用水路が満々とした水をたたえ、この地域の農業の発展に大いに貢献しており、またお松地蔵の前にはどこまでも続くかのような田畑がひろがり、治水によって得たこの地方の豊かさを物語っているかのようである。
海老名市内を散策していると、治水に関する記念碑がとても多く、またところどころに用水路が整備されて、先人たちがいかに治水に心を砕いてきたのかが読み取れるのであるが、いま満々と水を湛える用水路と、その用水路から水を引き入れる田んぼを眺めるとき、若くして村の為に一命をとしたお松の姿が思い浮かぶようで、ここにも自然の中で生きることの厳しさを思い起こさせるのである。