横浜市の中を流れる川でも最も川幅が広いのが、一級河川の鶴見川である。
その源は町田市小山田町の多摩丘陵に始まり、横浜市鶴見区の河口まで全長42.5キロの長さを誇る。
この鶴見川は、現代でこそ流れもゆるやかで、陽光降り注ぐうららかな春の日ともなれば河川敷の遊歩道にはジョギングで汗を流す人や犬を散歩させる人、自転車を飛ばす子供達でたいへんな賑わいである。
その中でも河口に近い、京浜急行の線路と鶴見川橋の間に挟まれた海側の岸の片隅の木の根本に、この「鶴見川水難者供養塔」がひっそりと立っているのが見て取れるのである。
その水難者供養塔は、誰からも振り向かれることもなくひっそりと立ち、たまに吹く風によりかすかにざわめく木々の枝と、誰かに奉納された千羽鶴のこすれる音だけが響き渡り、その情景はどこかより一層の哀れさをあらわしているのである。
この水難者供養塔は、昭和五十五年庚申七月の日付が裏面に刻まれ、このあたりの旧国名であった武蔵国橘樹郡神奈川領鶴見村の名と、この塔を寄進した吉田氏と山田氏の名が刻まれている。
この鶴見川は、現代でこそゆるやかに流れる川であるが、昔から容赦なく洪水と氾濫を繰り返す暴れ川として恐れられていた。
流域の、特に中流から下流にかけての現在の緑区、港北区、鶴見区のあたりはその被害は特に甚大で、たびたび堤を切っては田畑を濁流のうちに飲み込むので、その辺りの旧家は低地には家を作らないのが慣しであった。
しかし、時代が流れて流域が農村から住宅地へと変わっていくにつれ、地域の土壌の浸透機能が低下したことと、下水道が川に流される前時代的な治水体系の名残から、ひとたび大雨が降れば水かさは急激に増すようになった。
これでは従来の貧弱な堤防では心もとないとして、昭和54年(1979年)に始まった「総合治水対策」に取り組み現在の姿となったのである。
それでも、みうけんが鶴見川を遊び場として育った昭和の終わりの頃は「底無し川」と呼ばれ、川底は一度足をとられるとなかなか抜けないヘドロが堆積していた。
もちろん、学校では「川で遊んではならぬ」と厳しく言われていたが、今とは違ってまだ子供達は泥だらけになって外で遊ぶ子も多かった時代であったから、川で遊んでは深みにはまって還らぬ人となってしまう子供も多かったものである。
また、下流域では特に橋から身投げをする人も絶えず、毎年何人もの水死体が発見されるのが日常という川でもあった。
いつだったか、まだ残暑厳しかったころに開封されていない、いろいろなメーカーの牛乳がパックのままたくさん流れ着いている事があった。
なぜ川に牛乳パックが流れているのか不思議に思い、すっかり腐ってふくらんだ牛乳パックを踏みつぶすと、ヨーグルトのようになった牛乳が吹き出してきたが、それは溺れ死んだ我が子のために親が川に投げ込んだものだろうと大人から諭されて、それからは近づかないようにした記憶がある。
昭和50年代まで、お盆の時期になると鶴見川では盛んに灯籠流しが行われていた。
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「あの灯籠流しは、亡くなった人たちの魂が里帰りをした後に、冥土の世界まで乗って帰るための舟だ」という話を、祖父母や父母から聞かされた思い出がある。
灯籠流しの意味は色々あれど、そのぼんやりとした灯火がゆらゆらと川面を流れてゆくさまは、まるでこの川で亡くなった人たちの魂まで慰めているようであった。
その後、環境に悪いからと灯籠流しは禁止されてしまった。環境に配慮して自然に還る木と和紙とロウだけで作った灯籠流しなども模索されたが、杓子定規な行政の命により、伝統行事であった灯籠流しは途絶え、今では灯籠を川べりに並べて行事としているという。
いま、鶴見川の静かな川べりにひとり立ち、水難者供養塔にそっと手を合わせて祈りを捧げるとき、かつてこの川沿いで遊んだ二度と戻らぬ昔日の思い出と、川面にぼんやりと灯りを揺らす灯籠流しを両親と一緒に眺めた昭和の日々が、そくそくと思い出されてくるのである。