近頃開通した圏央道の相模原愛川インターチェンジの周囲は、最近まで農村地帯の風情を残していたが圏央道のインターチェンジ完成を契機に一気に発展が加速し、その栄えぶりはたいへんなものである。
その相模原愛川インターチェンジの東側も例外に漏れず田畑が拓かれて住宅地へと変わりつつあるが、その中にポツンと鎮座されているのが当麻の日枝神社であり、創建は比較的新しい明治41年、祭神は「大山衹命(おおやまづみのみこと)」、祭日は4月3日である。
もともと、この場所は当麻宿地区の西のはずれにあたり、昭和中期の史料には
まわりをぐるりと『当麻梨』の畑が取り囲んでいるため、初夏には白い花が咲き乱れ、真夏にはセミの声が響き渡り、そして秋には甘い梨の香りがただようなど四季折々の風情を楽しむことができます。
と紹介されているものの、時代も令和と変わった現代にあっては周囲はすっかり住宅街となって、その名残はまったく残されていない。
さて、近くを流れる相模川は昔から暴れ側として度重なる大洪水を起こしていたという。
明治40年に発生した大洪水もひどいものだったようで、折からの激しい大雨のためについに堤防は決壊し、濁流は集落という集落を押し流し、すべてを土砂に埋め尽くしたので復旧作業には半年も要したのだという。
そこで、人々は二度とこのような災害を起こさないよう、洪水のときに島状に残って水難を免れた場所を選んで翌年4月に神社を創建したのがこの日枝神社であるという。
今となっては水害対策としての治水工事も進み、川沿いには長大な堤防が築かれて大きな水害を起こすことはなくなった。平成31年・令和元年の台風19号では、降り続く大雨により相模ダムの貯水量が限界を迎えて緊急放流に踏み切り、下流の街々では大水害が危惧されたが、このときも堤防が水流を食い止めて大惨事には至らなかったのは記憶に新しいところである。
また、明治45年には防火の神として、秦野の白笹稲荷神社より分霊を受けて合祀した白笹稲荷社が祭られ、その脇には地域の道祖神も移設されている。
この道祖神は、「毎年小正月のどんど焼きには「お仮屋」と呼ばれるワラで囲った屋根の下に納められている」と上記の史料には紹介されているが、今でもこの風習は残っているのであろうか。
いま、時は流れて水害の被害もほとんど聞かなくなり、この日枝神社はまるで役目を終えたかのように住宅街の中にひっそりと佇んでいる。
しかし、今となっては境内には滑り台などが設置されて、元気な子供たちの遊び場ともなっており、文明の発展と時代の流れによって水難の危機は少なくなったとしても、今日も変わらず当麻の日枝さまはこの地に根付いて民衆の営みを見守り続けているのである。