JR相模線原当麻駅の東側、麻溝公園競技場は現在はギオンスタジアムと呼ばれて相模原市民に親しまれているが、その裏手の道路はスタジアムがあるなどとはにわかに信じがたくなるような山間の街道といったたたずまいを見せている。
その街道は下原やえざくら通りといって、麻溝公園の西端を南北に縦断する重要な道路であるが、その下原やえざくら通りを見下ろすように一段高くなった上に、人知れずしてひっそりと社が祭られているのが見て取れ、これこそが戦国大名であった北条氏照の娘、貞心尼を祀ったとされる山中貞心神社と呼ばれる神社なのである。
北条氏照は、戦国時代に関東を領有していた後北条氏の有力武将である。
後北条氏が豊臣秀吉の軍勢に包囲されて滅亡するまで、最後の首領である北条氏政とともに小田原城に籠り、最後には豊臣秀吉から自害を命ぜられてしまう。
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この北条氏照の一人娘であった「貞心」は、本当の本名も生年月日もわかっていない謎の多い女性である。
北条氏の重臣であった山中大炊助頼元の妻となるが、天正16年(1588年)8月26日に亡くなり、相模原市の天応院に「霊照院殿中室貞心大姉」という法名を頂き今も眠っているので、俗に「霊照院さま」「貞心さま」と呼ばれている、と地域史料に解説されている。
言い伝えによれば、貞心尼は家庭的には恵まれているとはとても言い難かったようで、北条家の重臣であった山中大炊助頼元の妻となってからも、すぐに夫を亡くしてしまい、せっかくもうけた一人娘も山中頼元を追うように亡くなってしまう。
世の無常を嘆いた貞心尼は天応院の住職に師事して頭を丸めて、のちには天応院の中興の祖としてあがめられている。
ひとりとなった貞心は、横山上の月米の松のあたりで、夜を追ってひとり月を眺めては
貞心はひとり二十三夜の月を仰ぎ、勢至菩薩の来迎を信じて、亡き夫や娘のおもかげを偲んだにちがいない
また、貞心だけではなく父の氏照も家庭愛に恵まれなかったと口伝されていたようで、永禄12年(1569年)に現在の愛川町で武田勢と北条勢が戦った三増合戦の際、北条氏照は武田軍に包囲されて風前の灯であった。
その時北条氏照は、今後一切は婦女との関わりを断つことを誓い、一心に神仏の加護を願ったところようやく危機から逃れることができた。それからというもの、北条氏照はその戒めを決して破ることはなく、正室の夫人さえ近づけようとはしなかったという。
夫人は、自らに向けた夫の愛が薄らいだのではないかと嘆いてとうとう自刃してしまったので、北条氏照は自分の思いが夫人に届かなかったという事を心に病んで、それから妻帯する事はなかったのだという言い伝えがある。
しかし、史実では北条氏照の正室は大石源左衛門定久の娘である比佐殿という女性で、北条氏照の留守役を務めて八王子城に籠り、天正18年(1590)の八王子城落城の際に城と運命を共にしているから、この北条氏照夫人が嫉妬と落胆のあまり自刃したというのは後世の創作かもしれない。
現在となっては、天応院の山門門前に貞心尼の乳母をかたどったとされる「おっぱい地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩といわれる座像が、どこかうら悲しげな表情を浮かべて、道行く人々を物言わず見守っている。
また、天応院の本堂の左手奥には、貞心尼の墓が新しく建て替えられて、今でもその伝説をここに伝えているかのようである。
いま、この墓の前にひとり立って心静かに手を合わせるとき、戦国の時代に翻弄されながらも仏道をよく守った貞心尼の、世の中の無常に対する嘆きの声が聞こえてくるようで、ここにも戦国の時代に幸せに生きていくということの難しさ がしみじみと思い起こされてくるのである。