保土谷駅からJRの線路に沿って走る国道1号線はかつての東海道として交通の要衝でもあったが、その1号線と今井川とを越えたところにある外川神社は、その創建は比較的新しく江戸時代のことである。
江戸時代、このあたりは湯殿山・月山・羽黒山を祀る山岳信仰の「出羽三山講」が盛んであったらしい。
幕末の頃、その講元であった「清宮與一(きよみやよいち)」という者が、出羽(現在の山形県)に赴いて湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝した際に、羽黒山の麓で祀られていた外川(とがわ)仙人大権現の分霊を勧請し、自分の屋敷内に祀ったのが現在の外川神社の起りとされ、今の外川神社のあるところがかつて清宮家のあったところとされている。
当初は外川仙人大権現と称していたが、明治の時代になって神仏分離令をうけて日本武尊を祭神と改めたうえで社名も外川神社と変えて今に至り、その霊験はあらたかで、特に小児の虫封じや航海の安全に御利益ありとして常に参拝者が絶えなかったのだという言い伝えが残されているのである。
ところで、この外川神社の道祖神はたいへんな子供好きとしても知られており、もともと道祖神は「サヘノカミ」や「道陸神(どうろくしん)」ともいって村の境や峠、辻、橋のたもとに建てては村へ疫病神などが入るのを防ぐ役割があったが、いつのころか外川神社に持ち込まれて安置されていた道祖神があり、正月15日のドンド焼きの際には子供らが中心となって道祖神の前でやる光景が最近まで見られたという。
むかし、このあたりの子供たちの間では「道祖神と遊ぶのだ」といっては、外川神社の道祖神を縄でしばっては引きずり回す、ということが流行っていた。
たまたま神社へお参りに来た村の婆様がこの姿を見てびっくり仰天、なんと罰当たりなことをするのだと大声を張り上げ、杖を振り回しながら子供たちを追い払ってしまい、道祖神をもとの所へもどしたのである。
婆様はよほど信心深かったと見えて、子らの非礼を道祖神に丁重に詫びたのであるが、その晩には婆様は熱を出して寝込んでしまった。
風邪を引いたわけでもなく、降ってわいたような高熱にうなされて寝込んでいると、夢枕に道祖神があらわれた。
「わしは、外川神社の道祖神なり。せっかく子供たちと仲良く遊んでいたのに、なぜお主は邪魔をしたのじゃ。しかも、杖まで振り上げて叱ることもなかろう。その罰に、お前には、しばらく寝ていてもらうぞ」
婆様は飛び起きて、必死に道祖神に詫びて、明日は子供を集めるからと許しを請うと、道祖神は何も言わずに消えてしまったのだという。
あくる朝、婆様はありったけの飴玉を持って、村中を歩き回っては子供を捕まえ、飴玉をやるから外川神社の道祖神と遊べと言って回った。
そのため子供が一人、二人と道祖神のところへ行くたびに、婆様の熱はみるみる下がっていったのだという。
この話はたちまちに村中に広まり、それ以来この村では子供たちが道祖神をどうしようとも、決して叱るような事はしなかったという。
そして、いつの頃からか正月十五日のどんど焼きの日には子供たちが巡ってくればどの家でも飴や小銭をやり、子供はその銭で好きなものを買っては道祖神の所で夜を徹して火を焚き、夜が明けるまで遊び通す習わしであったという。
いま、人気も少ない外川神社の境内に立てば、境内で遊ぶ子供達は見かけないものの、割れかけた石神にいくばくかの駄菓子が供えられて、往時の面影をわずかに偲ぶ事ができるのである。