JR線の湯河原駅から東へ250メートルほど行ったところ、城堀というところに産土八幡神社があります。
この神社じたいは特に目的地に設定していませんでしたが、その脇にあった道祖神が気になったので原付を停めてみました。
左手に大小合わせて2体、石で出来た僧形の坐像が仲良く並んでいます。
さらに、右手にあるのが文化八年(1811年)の百番供養塔と、南無阿弥陀仏の揮毫石塔でした。
この坐像は地蔵尊ではなく僧形です。
いつ、誰が何のために掘り、モデルは誰をかたどったものか特に記載がありません。
そのお顔は後から付け足されたコンクリート製のもので、丁寧に表情が作りこまれています。
凹凸で表現した眉毛や眼球、少し突き出した下あごなどの造形がコミカルで、どこかしら困惑したような、空虚に満ちたような表情を見せています。
この顔を作った方は、どのような思いで造形したのか。
ちょっと聞いてみたくなります。
右手にある坐像も僧形のもの。
こちらは何か面白くない事でもあったのでしょうか。
小さいながらもむっつりと固く結ばれた口からは、何か言いたそうな迫力というか、近寄りがたい威厳がにじみ出ています。
文化八年の百番供養塔。
百番供養塔というのは百番巡拝塔とも呼ばれて関東に多く見られるもので、三十三観音を3回巡拝した記録として建てられるものが多く、坂東・秩父・西国三十三観音などを巡拝した記念もあれば、坂東33観音を3回巡った記念の場合もあるそうです。
いったい、誰がどのような思いで巡拝したのでしょうか。
今とは違って全てが歩きの行程で、スマホどころか大した地図もない旅路ですから、それはそれは大変な旅だったと思います。
南無阿弥陀仏の揮毫石塔。
おそらく、この筆の運びから徳本上人のものと思われます。
徳本上人の物であれば下の方に独自の紋が入っているはずですが、コンクリートに埋められてしまっており探すことはできませんでした。
これらはgoogleの地図では道祖神として紹介されていました。
ただ、実際に道祖神であるかどうかは分かりません。
ずっと長い間、ここでこうして来たのでしょう。
いつしか時代の流れにそって少し向きが変わった、という記述もインターネット上にありましたが、この像に対する詳しい記録は「新編相模国風土記稿」などの史料などを見ても見当たらず、この石像ができた経緯や時代背景など、あくまでも推測するしかありません。
ただ、この石像に向き合って見つめあっていると、科学万能と謳われながらも多くの人々が信心をなくしてしまい、仏法など忘れ去ってしまったかのような現代を嘆いておられるようで、どこか諦めにも似た空虚なお顔に見えてしまうのは気のせいなのでしょうか。
昨日も今日も変わることなく、この城堀の道祖神さまは悲し気なお顔で、またムッツリしたお顔で、神社の脇をせわしなく歩く現代人たちの後ろ姿を見つめているのです。