横浜横須賀道路、佐原インターチェンジの北側は山に寄り添うようにして細い道がどこまでもつながる、いかにも歴史の古そうな住宅地が広がっており、車では容易に入れない、このような所こそが原付の力の見せ所である。
この辺りを昔から大矢部というが、その鎮守である近殿神社(ちかたじんじゃ)の創建は古く、祭神もこの地を治め鎌倉幕府の大勢力であった三浦義村公を祀るなど、三浦一族にゆかりの深い神社である。
三浦氏は桓武天皇の孫である、高望王(たかもちのおう)が平高望(たいらのたかもち)と平性を名乗り、その子である平良文の曾孫、平忠通の子である三浦為通より始まるのである。
源頼朝から遡ること4代、源氏の棟梁であった源頼義とともに前九年の役を戦った村岡(三浦)平太夫為通は、その功により康平6年(1063年)源頼義より三浦の地を与えられて初めて三浦姓を名乗り、衣笠城を築きあげ、この日を境に関東における三浦氏の繁栄は始まり、平氏でありながら源氏の臣下として活躍することとなるのである。
近殿神社に祀られる三浦義村の父である三浦義澄は、三浦大介義明の子であった。
義澄と父義明は、源頼朝と、その父である源義朝と共に平治の乱を戦いぬき、衣笠城での合戦においては三浦義明は「老いた命を頼朝に捧げ、三浦の子孫の手柄としたい」といって衣笠城に籠り、華々しく散った功績が高く評価されて三浦一族は鎌倉時代初期の宿老として重きをなしたのである。
三浦義澄の墓所は、近殿神社の近く薬王寺跡にいまだに残されているのである。
現在、寺跡には民家が立ち並んでしまったが、崖の下には今なお三浦義澄の墓標が大切に残されている。
薬王寺は、和田義盛が父である和田義宗と叔父である三浦義澄の霊を慰めるべく建暦2年(1212年)に建立され、江戸期には三浦札所4番として活動もしていたなど、それなりに権勢のある寺院だったようである。
だが、惜しむかな明治の廃仏毀釈により廃絶されてしまい、それまで残っていた薬師堂も破棄されて、昭和のころには見渡す限りの水田に変わっていたという事である。
本尊の薬師如来像は、今は満昌寺に移され、かつて裏山にあったやぐらからは板碑も発見されており、ともに満昌寺で保管されている。
三浦義澄は、かつて矢部の二郎とも言われたように、薬王寺のあった大矢部に館を構えていたともいわれ、この地に薬王寺を築いたのも偶然ではないのだろう。
三浦義澄主従の墓は、細い路地を入った奥に土壁に守られて残っており、一時期は心ない住宅開発業者に破壊されそうになりながら、こんにちまで長らえてきたという。
近殿神社の灯籠や、墓所の壁の瓦に至るまであらゆるものに三浦の三つ引き紋があしらわれ、まさに三浦一族ゆかりの地である事を如実に現しているのである。
墓所の中心に、四角い石を三重に積み上げた義澄の墓と伝えられる塔は、整った五輪塔ではないものの、どっしりとしたその姿は義明なきあとの三浦一族を盛り立てた義澄の偉大さを見るかのようで、いかにも力強い。
また、墓所の片隅には不揃いな石積みが残されているが、これらは三浦一族の郎党や従者たちの墓であり、合わせて合掌礼拝すべきであろう。
いま、薬王寺の山門があったであろう場所には「山門及び駒繋石」の碑が残されている。
このあたりが薬王寺の山門であったと推測され、そのわきにはアザ地蔵と呼ばれる石が置かれているのが見てとれるが、この石に左寄りによった縄をかけて願掛けするとアザがとれると信仰されていた興味深いものである。
いま、薬王寺跡の墓所の脇には詣でる人も途絶えつつある薬王寺の住職のものと思わしき卵形の墓がひっそりと並び、まるで武士や仏道の栄枯盛衰を物言わず語っているかのようである。
いま、誰もいない晩秋の墓所で、はるかなる御先祖様を偲び一人手を合わせる時、突如として大矢部の山々に翻る旗指物と、武者たちの鬨の声が聞こえて来るようで、ここにも時の流れの切なさをしみじみと感じるのである。