今ではマグロで有名な三浦三崎は、かねてより三浦水軍や北条水軍の拠点として栄え、その名残は今なお北条湾という名前が残されている事からも明確ではあるが、漁業の拠点としても栄えた上に江戸時代には廻船の寄港地としても栄え、その全盛時代には24軒もの船宿が集まっていたという。
本来、江戸時代の「ふなやど」というのは二種類あり、屋形船や釣船の運営、江戸などの運河や河川が多い街では川や水路で客を乗せて運ぶ現代のタクシーを業とする商業・娯楽施設である「舟宿」と、江戸時代の廻船の船員を泊める宿泊施設と荷物の検閲をする「船宿」があった。
とくに後者のほうは役人の指示のもと全国から集まる廻船の積み荷を調べては役所に報告したり、また船員に対して積み荷のあっせんや遊興のあっせんもしていたという。
そうして船員たちが街に集まるようになれば当然花街も栄えてゆくわけであるが、番所が三崎から下田に移転したのちは船宿は13軒にも減少してしまう。
こうした三崎の花街は明治8年(1875年)までは現在の海南神社の周辺に料理店や射的店、茶店などが賑わいを見せるほど栄えることとなった。
しかし、夜中まで続く男たちの遊び声は朝早く漁に出る漁民たちにとっては安眠妨害の他の何ものでもなく、さらに地域の風紀を乱してはならぬとの立ち退き運動が始まって、入船と呼ばれる地区の丘の上に移転することとなった。
いま、この入船の丘の入口には当時のものとされる石の門柱が折れたまま残っており、かつての門の上には煌びやかな灯りがともり、また階段を上がれば着飾った女たちが妓楼の窓から男を見下ろしては黄色い嬌声を浴びせ、その華やかだったころを想像することができる。
しかし、妓楼があったと古老が話すところにはただただ雑草生い茂る荒地が広がり、かつてはここで数々の男女のドラマが生まれたとはにわかには信じがたい寂しさもある。
その奥には、かつて入舟波切不動堂と呼ばれた小さなお堂がある。
古くは竜潜庵と号されたこのお堂は、航海安全を願う漁師たちや廻船主たちの信仰を集め、毎月28日の縁日となれば境内に舞台をこしらえて芝居やら踊りが開催され、その光景を妓楼の二階や三階から娼妓や客が眺め、たいへん賑やかだったというが、今は本尊のお不動様も移転され、訪れる人もいない淋しいお堂になってしまった。
こうして隆盛を極めた三崎入船の花街であったが、明治33年(1900年)に妓楼から出た大火により花街は灰燼に帰し、翌年には三崎の北条湾の奥にすっかり移転してしまったということである。
主に、この三崎で働いていた娼妓たちは三重や紀伊から来ていた17歳から35歳くらいの女たちであり、生家の貧しさのあまり売られてきた女たちであったという。
夕方には灯りがともり、派手な着物に真っ白なお白粉で身を固めた女たちは夜な夜な妓楼の窓から顔を出しては男たちを誘惑し、その賑わいは尋常ではなかったというが、ただ生きて行くためだけに、好きでもなければ名前も知らぬ男たちに夜ごとに体を開く、そんな女たちの心中と生き様はいかばかりであったろう。
そしてふるさとから遠く離れ、頼る者もおらず、逃げ出したくても行く当てもない女たち。好きな男を作る事もできず、ましてや結婚をして子を設け家族円満など夢のまた夢。
自分たちを買った男には帰る家があり家族も家庭もあるだろうに、その都度あわれな自らを振り返るのはいかに辛い事であったか。
こうして、想像を絶する責め苦に耐えかねた女たちは夜ごとに抜け出しては、夜の闇深い森を駆け抜け、漆黒の海をのぞむ八景原の断崖の上に立ったのである。
女たちは最後の念仏でも、自らの不幸を嘆く恨み節でも唱えたであろうか。
あるいは二度と会えぬ父を母の名を力の限り呼んだのであろうか。
そうして女たちは断崖切り立つ崖の上から身を躍らせ、外海の波あらく流れも早いこの海に身を投げると、そのまま流されて行方知れずとなるか、時として上がる遺体は眼を覆う惨状であったという。
いま、この八景原を望む断崖の上には大正13年に再建された供養塔が寂しく立ち、足を止める車も人もない県道の片隅で、訪れる人もなくひっそりとたたずんでいる。
いま、この八景原の断崖に立ち、どこまでも続く大海原を眺める。
この地に立つと、かつて自らの人生を嘆きのろい、無念の中に人知れずして海の藻屑と消えていった女たちを想うとき、人生のはかなさと生きて行くことの悲しみが思い起こされ、一筋の涙を誘うのである。
※実際に供養塔に行かれる際は、足元に充分注意して下さい。柵などいっさいありません。草むらの向こうは、いきなり断崖になっています!!