横浜市金沢区というところは、地理的には鎌倉に近く、東海道の脇往還から三浦半島の三崎や浦賀に通じる道として、また漁港や廻船の港町としても発展してきました。
そのために歴史的な見どころも多く、また神社仏閣もたくさん残されています。
今となっては住宅地としての開発の波もあるものの、金沢八景や能見台といった昔からの景勝地にも恵まれたところです。
そんな金沢区の、京急線の能見台駅と金沢八景駅の中間のところ、住宅街の奥の細まった道を進んでいくと見えてくるのが臨済宗建長寺派の海蔵山 太寧寺(かいぞうざん たいねいじ)です。
この寺はもともと、源範頼(みなもとののりより)によって瀬ヶ崎に創建された真言宗寺院で、寺号も薬師寺と称したとされており、源範頼のものと伝わるお墓も残されているので、そちらは別記事で紹介したいと思います。
さて、この太寧寺のご本尊様は薬師如来さまで、通称「へそ薬師」と言われ、今なお里人たちからの多くの信仰を集めています。
この「へそ薬師」の由来には不思議な伝説が残されているので紹介させていただきたいと思います。
今から800年ほど昔のこと、たった一人で暮らしている女の子がいました。
その女の子は両親に先立たれたために頼る身よりもなく、生活はいつも貧しくて、両親の命日となっても位牌に備えるお供物すら買う事もできませんでした。
困った女の子は、家にあった麻の束をつむいで糸にし、「へそ」を作って売る事にしたのです。
「へそ」というのは、お腹にあるヘソではなく、つむいだ麻糸を環状に幾重にも巻きつけたもので「綜麻」と書いて「へそ」と読むものです。
昔の農家の内職として重要なもので、女性が「へそ」を「繰って」お金を貯めたことから「へそくり」という言葉ができたほどです。
女の子は寝る間も惜しんで一生懸命に麻をたぐり、糸にして巻いてたくさんの「へそ」を作りました。
しかし、せっかくへそをたくさん作って、街に出て売り歩いたものの、来る日も来る日も一つも売れる事はありませんでした。
女の子はすっかり気を落とし、ついに命日の前日となったものの「へそ」は一つも売れず、諦めて帰ろうとした時に、一人の男の子がやってきて、「へそ」を全部買って行ってくれたのです。
これによって女の子は両親にお供え物をする事も出来ました。
すっかり嬉しくなった女の子は、事の一部始終をお坊さんにも話しました。
その話をじっと聞いていたお坊さんは、女の子をご本尊さまの薬師如来さまの前に連れて行きました。
すると、その薬師如来さまの前には女の子の売ったはずの「へそ」が一つ残らず積まれていたのです。
お坊さんは、女の子に対して「ある日、突然薬師如来さまの前に「へそ」が現れたので不思議に思っていたが、お前さんの話を聞いて納得した。きっと、薬師如来さまは親孝行なお前さんを助けてくださったのであろう。ありがたや、ありがたや・・・」と言って、一心に手を合わせるのでした。
この話は村の中にあっという間に広がって、このお薬師さまは「へそ薬師」と呼ばれて大切にされ、今なお里人たちの信仰を集めています。
現在、この薬師如来さまは秘仏となっており、厨子の中に大切に納められています。
この時もご住職からいろいろとお話を頂きましたが、本堂の老朽化も激しく、ネズミの害もあり、いかにしてご本尊さまをお守りするか苦心されていると言うことでした。
このお厨子も歴史的に見て貴重なものだそうです。
その代わり、お厨子の前には御本尊さまの写真が飾ってありますので、一度は見ておく価値もあるでしょう。
せっかくなので、御朱印を拝受しました。
御住職は90歳をこえるご高齢で、歩くこともおぼつかないようでしたが、心を込めて一生懸命に書いて下さいました。
実にありがたい事です。
いま、静かに風が吹き抜ける境内に一礼して、門前の狭い路地を抜けて原付を走らせるとき、かつてこの道を通って「へそ薬師さま」にお参りをした里人たちが一途に歩む姿が目に浮かぶようで、昔日の思い出もよりいっそう鮮やかによみがえるかのようです。
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