京浜急行 三浦海岸駅からバスに揺られる事20分。
三浦半島の南東の端、「松輪」バス停に降り立った。
辺りを見回せばスイカ畑が広がり、すぐ近くには波打ち寄せる海岸が迫っている。
歩く人は誰一人としておらず、海開きを迎えた三浦半島の風景にしてはあまりにも寂しい。
今回の旅は、この松輪が舞台である。
時すでに12時を過ぎていた。
ここで、海を眺めながらの昼食としようw
三浦海岸駅から程近い、とあるスーパーで購入したカツ丼。
260円というお手ごろなお値段が良い。
かしましく旋回するトンビの群れを頭上に頂きながら、海を眺めつつ頂くカツ丼は、また絶品であったw
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さて、腹くちくなった所で、再び松輪バス停へと足を向ける。
バス停を取り囲む畑の中に、一箇所だけこんもりと盛り上がった塚がる。
これを、地元の古老は「タッチャバ」と呼んでいる。
これが、飢饉の悲話を今なおひっそりと伝える遺構である事を知る人は、今となっては数える程しかいないという。
バス停から、すぐ前に石仏が並ぶ一角がある。
ここの路地を入っていけば田鳥原部落があり、その奥に入っていくと一軒の無住の閻魔堂が姿を現す。
この閻魔堂は普段は誰もおらず、粗末な畳の部屋があり、その奥に何体かの仏像が祀られているだけの簡素なものである。
しかし、比較的新しいスイカやお菓子が供えられ、きれいに掃除されているところを見ると、今でも地元の人たちの信仰を集めているさまが容易に見て取れるのである。
その傍らにたたずむコンクリートブロック造りのお堂には、凛(りん)としてたたずまいもおごそかな観世音菩薩の坐像が一体、安置されている。
こちらも新しい線香が供えられ、花が手向けられている。
線香を一本あげ、手を合わせた。
さて、その脇に雑然と並べられた石仏群がある。
奥には僧侶のお墓があるので、このお寺を造ったお坊さんのお墓なのだろうかと推察がつくのだが、お墓や不動明王に混ざって一体の観音像に着目した。
割れてしまったのを丁寧に直してあるのだが、右手には明らかに錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる棒を握っている。
通常、観音像は右手を垂らして数珠を持ち、左手には絶え間なく水を出す水瓶と、それに挿した花を持っているものである。
しかし、この観音像は右手に錫杖を握る。
これはいかなる事であろうか。
文献によると、江戸時代の元禄・宝暦・天明の大飢饉の際、米一粒を口にする事もできず餓死した人がたくさん出たという。
飢え、病、そして一粒の米をめぐっての殺し合い。
人が人を喰らい、空をカラスが覆い、人や牛馬の遺骸はそこここにあふれ、弔う人もなく漂う死臭が村々に満ち満ちていたという。
このような遺骸を集めたのが、このタッチャバの塚なのである。
今では畑の一部として同化しているが、畑の土地とするべく塚を切り崩した際に、古い陶器の破片や貝殻に混じって、人骨や牛の角などがおびただしく出てきたという。
日本石仏協会 加藤孝雄氏の「三浦の石仏」によれば、
『ひと握りの人たちからなる葬列が、鐘を鳴らしながら丘をゆっくり登って来る。やがて塚の上に棺を置いて、代わる代わる香を手向け終わると、人々は逃げるように足早に帰って行った。塚の上には、いつの間にか白い鳥が一羽たたずんでいた。こんな情景が想像できる』
とあり、さらに『田鳥はサギの事で、田んぼで蛙やどじょうを食う。また、肉食の鳥にはトンビもいる。結果的には塚は鳥葬の塚であったかも知れない』と書いている。
『新相模風土記』松輪の項に、この辺りには多くの田があった事が記されている。
ここの古老はこの塚を田鳥原(タッチャバ)と呼んでいるところから、田鳥原の地名の起こりも、この塚から産まれたのではないかと想像に難くない。
錫杖観音とは、観音と地蔵を一体にした像である。
現世を生きる衆生を救うのが観音であり、死後に冥土の旅路を案内するのが地蔵である。
観音に、地蔵が持つ錫杖を持たせることによって、両方の良いところをかね合わせたものである。
この観音像の法衣や錫杖には、救いを求めてすがりつく死者の姿が描かれている。
また、この下には、いくら鬼に崩されてもひたすら石を積み続ける子供の姿が掘り込まれ、なんとも悲しい情景をかもし出しているのである。
人生半ばにしてこの世を去った人たちの無念を想い、冥土の旅安かれと願った村人達が、このような珍しい錫杖観音を建立し、生きては観音の恩恵にあずかり、死んでからは極楽浄土へと連れて行ってもらおうと、地蔵と観音を一体にして建立したのであろう。
村人達の、自然に抗うことの出来ぬ悲しみがひしひしと伝わってくるのである。
閻魔堂より、農道を歩いてタッチャバ塚を目指す。
中央右側の塚がタッチャバである。
塚の半分は削り取られ、ゴミが散乱している。
よく見れば、古い貝殻や陶器の破片が大量に打ち捨てられている。
その中には、ろうそく立てや花立などの仏具、なつかしい牛乳ビンなどもあった。
タッチャバの前から眺めるスイカ畑。
限りない青空の下、どこまでも続いていた。
この、今すぐにも歴史の波に洗い流されてしまいそうな、また忘却の彼方に忘れ去られていきそうな小さな塚に、かつての村人達の、生に対する思いや悲しみを垣間見た一日であった。
(この記事はみうけんの旧サイトから転載したものです)