みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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子産石と智回尼の伝説 (横須賀市)

※写真が一部消えているため、近日中に撮りなおして掲載しなおします。

 

JR逗子駅から、長井行きのバスに揺られること20分。 

富士山に抱かれながら雄大に広がる相模湾を眼下に控えながら、「子産石」(こうみいし)バス停に降り立った。 

 

 

見える物といえば数件の民家と、なだらかな丘には青々とした初夏の木立が茂り、打ち寄せる潮騒は数千年変わらぬ静寂を与えていた。 

このバス停を降りて、まず目に入るのが県の指定文化財ともなっている巨大な丸い石である。 

 

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これこそが、バス停の名前の由来ともなっている子産石である。 
軟弱な岩の中から、硬く丸い石が波に洗われて出てくる不思議さから、古来より安産のお守りとして信仰の対象となっており、現在でもこの子産石を求めて海岸を歩く人々の姿を目にする事がある。 

また、この巨大な子産石の足元には、今なお一途な望みをこの石に託した人々の思いがつづられている。 




この土地の子産石に対する愛着は今なお強く、近隣の家々には、かわいい子産石がうやうやしく飾られているさまを、いまだに目にすることが出来る。 
 


 





どこまでも続く大海原を背に抱えながら、急坂の山道をしばらく登ってみると、茂みの中に忘れ去られたようにひっそりと建つ祠と、お地蔵様がある。 
 

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この祠の中には、智回(ちかい)さまと呼ばれる、人間の形にも見える異形の子産石が安置され、その脇には六地蔵が安置されているが、そのお姿たるや潮風にすり減り文字の判読すら難しく、苔むし角は欠け、悠遠の歴史をただ歩んで来たお姿が一層哀れであった。 
 

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普段歩いているだけでは見落としてしまいそうなこの祠こそが、哀話を今に伝える智回尼の祠なのである。 

昔、この辺り一帯の山を観音山と呼び、この場所には小さな観音堂があった。 
ある日、一人の年老いた智回という尼僧が、この観音堂に一泊の宿をとったが、堂内より見下す眺望の美しさと、温暖な気候に数日を過ごすうち、里人から石が子を産むという、珍しい子産石の由来を聞かされた。 
すっかり気に入った智回尼は、ひそかにここを生涯の終わりの地と決めたのである。 

ある年、今までにない大飢饉に、村の人々は苦しんでいた。 
食べる物もなく、飲む水もなく、人が人を食べて生きながらえる、地獄のような日々が果てしなく続いていた。 

哀れに思った智回尼は、この人々の苦しみを全て一人で受け止め、この村人達を苦しみから救うべく立ち上がったのである。 

しかし、所詮は貧しく、どこの馬の骨か分からぬ乞食僧侶である。 
村人達は、「どうせお賽銭でも持ち逃げするだろう」と言っては口々にののしり、誰一人として智回尼を信じる事はなかったという。 

しかし、それでも固い信念を胸に、智回尼はわずかな木の実と水だけを口にしながら、体の肉を落とし、骨と皮だけになっていった。 

春まだ寒い二月の或る日、智回尼は村人を集め、海の見える観音堂の境内に穴を掘り、石室を造った。 
そして白装束に身を清めた智回尼は、手に持ち打ち鳴らすカネが鳴り止み、読み上げるお経が聞こえなくなった時こそ、人々の苦しみを全て受けとめる時であるとして、村人に静かに別れを告げて自ら入定したのである。 

石室の上には土を盛られ、ただ一本の竹筒を通してわずかな空気が入るのみ。 
真っ暗な土中で飢えと寒さにおののきながら、最後の力を振り絞って読経を唱え、死に向かってカネを叩き続けたという。 

そして次第に細りゆく声は、時には強く、時には弱く、七日七晩の間は響いていたが、やがてそれも聞こえなくなると、あたりは沈痛な空気が流れ、村人は合掌号泣したという。 

(このように、民衆の苦痛を全て背負い、自ら餓死することを「入定」(にゅうじょう)という。寒冷な山形県などでは、掘り出された僧侶のミイラが今なお寺にまつられている。明治以降は法により禁止) 

後に智回尼の高徳を愛した村人達は、入定した墓穴の上に土を盛り、そこを聖地としてきた。 
特に、近隣から発掘されたという地蔵菩薩に似た異形の子産石を智回尼に見立てて建立し、ねんごろに弔ったといわれている。 

それから数百年の歳月が流れ、今なおこの伝説は語り継がれてきた。 

大正九年、当時の村人によってこの墓穴の発掘作業が進められた。 
墓穴の周囲には石が四角形に積み上げられ、150センチほど掘り下げた底からは、まぎれもない智回尼の遺骨が、枕を西にして座ったままの姿で発掘されたという。 

時代は流れ、この墓穴の近隣には住宅が立ち並び、観音堂も廃れて往時の姿を想像する事すらかなわぬが、この智回尼の人気が衰える事はなく、近隣からの参拝客で大変にぎわい、一時は縁日まで出る事もあったと言う。 

しかし、時は平成に移り、この哀話もいつしか語られる事すら珍しくなり、今では訪れる人も少ない小さな祠に、異形の子産石が物悲しく鎮座し、脇の地蔵は歳月の流れを感じさせ、いっそうの哀しさをあらわしているのである。 

左端に見えるのが智回尼の墓。 
「定覚智回法尼」と記されている。  


祠の前より相模湾を望む。 
現在は住宅が立ち並んでいるが、その風光明媚さは現代でも衰えることを知らない。 
 


智回尼が愛したであろう子産石近くの海岸。 
ここからどこまでも続く海を眺めながら、智回尼はひとり何を思ったのだろう。 

 
(この記事はみうけんの旧サイトから転載したものです)

 

 

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