横浜市南区、地下鉄の弘明寺駅を降りて門前の商店街を抜けたところに秀麗な山門が見えてきます。京浜急行の弘明寺駅からも近いです。
このお寺は、横浜市最古の歴史を誇ると言われている高野山真言宗のお寺、瑞應山 蓮華院 弘明寺(ずいおうさん れんげいん ぐみょうじ)です。
かつては、裏の弘明寺公園などすべてがお寺の範囲内でした。
このお寺の御本尊様は、平安時代に作られた木造の十一面観音立像です。
地元では弘明寺観音と呼ばれて広く親しまれ、国の重要文化財にも指定された貴重なものです。
最近のお寺は、お葬式や法事の時にしか行かない!! という方も多い現代において、毎月8日・18日・28日の14時から開催される護摩修業は有名です。
護摩修行|弘明寺 横浜最古の寺(高野山真言宗) Goma fire ritual (Homa) at gumyoji , yokohama JAPAN
毎月3回行われる護摩修業ですが、特に特別なのが7月8,9,10日の3日間連続で開催される「四万六千日功徳日」です。
この1回、護摩修業に参加すれば46000回参拝したと同じ効果を得られるという特別な日でもあります。
というわけで、みうけんもさっそく原付を走らせてやってまいりました。
境内には、この「四万六千日功徳日」を知らせるポスターが貼られていました。
祈りの寺・弘明寺観音というフレーズが素晴らしいです。
このお寺は、鎌倉の某寺のように妙にツンツンしていないし、野毛の某寺のように目が¥¥していません。
信者を大切にし、真面目に歩まれていると思います。
本堂の前には立て看板もありました。
こういう字をスラスラと書いてみたいものです。
これは2月ごろに移した様子ですが、護摩修業の日はいつも堂内が埋め尽くされるほどの人が詰めかけます。
現在はソーシャルディスタンスを取っていますからここまで密ではありませんが、それでも満席になってしまう事には変わりありません。
みうけんは事前に席を確保しておきました。
たまに、タイミングが良ければこういう最前列に座れることもあります。すぐ目の前には大太鼓があり、間近で聞く大太鼓の迫力は圧巻です。
堂内を見回すと、立派な彫刻が目に入ります。
床はいかにも古そうで、床も柱も立派な木が使われています。
この床板は、寛徳元年(1044年)に光慧上人が建立した当時の古材を使いまわししたそうで、実に1000年も前の床なのですね。
この護摩行は、もちろん手ぶらでも参加できますが、みうけんは護摩木をいつも買い求めています。
これにいろいろな願い事を書いて、火中に投じるのです。
燃え盛る火の中に投じられた護摩木は燃え尽きて灰となり、その炎の熱に乗って天高く舞い上がり、神様仏様の目にとまって願いが叶うのだそうです。
さて、なぜ「四万六千日」なのか。その由来ははっきりしていませんが、お米の一升が約46000粒であるから、一升を一生にかけたという説、または365日で割ると126年となるので、一生すぎてもあまりあるように、という説などいろいろあるようですが、実際のところはハッキリと分かっていないようです。
それでも、この日はお坊さんの読経にしたがって参詣者みながお経を唱え、真言を唱え、「鎮護国家・疫病退散、七難測滅・七福即生」の掛け声の下、思い思いに願いを書いた護摩木を火の中に投げ入れていくのです。
御住職の法話によれば、これによって126年分の御功徳を得て、あぁ、一生分の功徳を得たからこれでいいや、というわけではないようです。
日本仏教の世界では人間は死後、誰もが「六道」(ろくどう)のいずれかに生まれ変わります。すなわち、
天道(てんどう)=人間よりも優れた天人の世界。寿命は非常に長く、苦しみもほとんどない。空を飛び、その姿は神仏のようであって実は煩悩の世界に生き、いつ下の五道に堕ちるかと怯えながら暮らし、また優れた存在ゆえに修行をすることもせず仏道を今以上に深めることが出来ない。
人間道(にんげんどう)=現在の我々の世界。楽しみもあるが苦しみも多く、そして自力で仏の世界へと近づける唯一の世界である。しかし、それを怠ると来世では堕ちていくばかりである。
修羅道(しゅらどう)=常に戦い、傷つく阿修羅が住む世界。苦しみや怒りが絶えないところであるが地獄のような苦しみではなく、自らを見つめなおして反省する場所でもある。
畜生道(ちくしょうどう)=動物の世界。読み書きもできず、本能のまま生きるしかなく、誰かに使われて一生を終える家畜として生きることも珍しくない。
自力で仏の教えを得ることができないが、罪を犯すこともほとんどない。
餓鬼道(がきどう)=腹がおおきく膨れた醜い「餓鬼」の住むところ。いくら食べても満たされず、その食べ物ですら食べようとするとたちまち火となるので食べることもできず餓えに苦しむ。人の事を考えず、私利私欲ばかりをむさぼったあげくの成れの果て。
地獄道(じごくどう)=いわずもがな。
のどれかに生まれ変わるわけですが、そのどこに行くかは生前の行いによって決められるのです。多く功徳を積めば積むほどによいところに生まれ変わることが出来、その先でも積んだ功徳は生き続けるという事です。
仮に畜生道に生まれて動物となっても、飼い主に愛されて幸せに一生を終えるペットになれるか、ただ殺されて食べられるだけの家畜となるか、誰からも愛されずに孤独に生きる野良猫となるか、その行く先もさまざまなようです。
ちなみによく道端や日本昔話に出てくる六地蔵は、その六道のどこに堕ちても良いところに引き上げてくれるというお地蔵さんだそうです。
この日、弘明寺観音の本堂の前にはきれいな蓮の花が咲いていました。
我が家にも蓮は植えてありますが、未だこのように綺麗には咲いてくれていません。
この蓮を眺めるとき、多くの人の願いが天に届き、誰もが幸せに生きていける世界、そして死後の世界でも苦しみなく穏やかに過ごせるようになればよいな、と手を合わせたのでした。