鎌倉街道の向田橋交差点から別所インターチェンジの方へと向かっていき、イトーヨーカ堂を過ぎたあたりで南へと登っていく急坂は「餅井坂」と呼ばれているが、この餅井坂にはこのような伝説が残されている。
この「餅井坂」という坂は鎌倉時代に作られた道であった。
この辺りでは特に道が険しい上に草木に覆われて昼なおうっそうと暗いので、この坂を通る旅人たちの中でも難所とされている坂であった。
ある日、京都から旅を続けていた 道興准后(1430~1527)という僧侶が浅草から港北区の新羽を経て、保土ヶ谷区を通りこの道にさしかかった時のことである。
この坂が餅井坂というからには、坂の上の茶店では餅を売っているだろうと思った道興准后は、大好物の餅が食べられるとあって、きつい坂道を、あえぎ、あえぎ登っていき、息を切らせながらやっとの事で登り切ったのである。
そこには一軒の茶店があるので、さっそく店の前の長椅子に腰を下ろして主人を呼ぶが、この辺りの茶店には餅はない、という無慈悲な鉄槌を受けてしまったのである。
あまりに落胆し打ちひしがれた道興准后は、のちに旅の記録である「廻国雑記」という記録に、
行きつきて 見れどもみえず もちひ坂
ただわらぐつに あしを喰はせて
という和歌まで残している。
やっとの思いで餅井坂にたどり着き、餅を食べることだけを心の支えに登り切った。しかし、そこには餅はなく、ただあるのは足に食い込むわらじだけであるとは。
そんな悲嘆に暮れた歌を残すほど、道興准后は嘆いたのであろう。
今でも、餅井坂を登りきったあたりを「甘酒台」と呼んでいる。とは言っても、昔からここに住んでいる人ですら忘れかけてしまった小字であるが。
この辺りの茶店では甘酒が名物であったところからついた名だそうであり、道興准后は落胆しながら甘酒でも飲んだことであろうか。
いかに高僧と言われても、やはり人間。
このような人間くさい逸話も残されているところに、偉大一辺倒ではない道興准后の人間的な魅力を感じるのである。
この坂を登り切ったあたり、眼下に南が丘中学校を望むところは、かつて茶店が並んで旅人が腰を休め、ここから眺める風景を楽しみながら休んだところとされる。
この坂の上で、道興准后も腰を休めたことであろうか。
今となっては通る人もまばらな静かな住宅街であるが、この坂の上からははるかに富士山も見え、数百年前の旅人たちも同じ風景を楽しんだことであろうと思い起こすとき、はるかなる昔日の光景が昨日のことのように思い出されるのである。